「紗希、紗希!」
「え?」
「見て、早咲きの桜! 綺麗だねー」
「……確かに、そうかもしれない」
陽介はある休日の朝、紗希を早くから起こして、庭を回ろうと言って無理矢理にというわけではないが、若干強制的に一緒に庭を散歩していた。
「もう春なんだねぇ。まさか僕もこんなにのんびりした時間が来るなんて思ってなかったなぁ。特に、若い時なんかは」
「春なのはわかるんだけど、のんびりした時間が……ってどういうこと?」
「時間に追われてた若い頃と違って、時間を楽しむ余裕が出来たってことだよ」
「……」
相変わらず、わかりづらい。陽介の言うことは、水みたいな感じがする。
純粋で、掴めなくて、裏表なくて明け透けで。
でも、そんな人だから人はついていきたいと思う魅力があるのだと紗希は思う。
(私は……結婚してよかったのか、未だにわからないけれど。でも、結婚したい女性は絶対に多いだろうなぁ……)
「あ、紗希、紗希! タンポポ咲いてる! ほら、この植え込みのところ!」
そこにはタンポポが一輪、可愛らしく咲いていた。
「タンポポか……。唐揚げだか天ぷらにすると美味しいって聞くよね」
「え? タンポポって食べられるの……!?」
「うん。知らなかった?」
「うん……。想像できないなぁ。どんな味、食感なんだろう。今度二人で食べてみる?」
「私は遠慮しておく。せっかく咲いてるタンポポが可哀想だから」
「……そっか! 紗希って意外と女の子らしくて可愛いところがあるんだね」
「……」
もう何も言うまいと思った。
この男の天然なところは一生このままだ。
天然な女たらしであることも、間違いなく一生このままだ。
でも、彼はどこかで一線を引いている。
それは、誰にでもそうで、契約したからとはいえ、結婚した紗希にでさえもそうなのだ。
太陽のような陽介にも、氷のような心の一部を持っているところがあるのだとしたら……。
それを溶かしてくれる人物はいるのだろうか。
紗希はそれが気になった。
溶かしてくれる人物がいるなら、その人に妻という座を明け渡したいし、もちろん自分は身を引くつもりだ。
報酬をもらって、それでおしまいだ。
だけど、なんでだろうか、それがとても悲しいような……、切ないような気がした。
(同情なんか、しているはずもないのに。そのはずだったのに。好きになってるわけはない。それはない。だけど、じゃあ、これは何)
紗希は自身の心がわからなくなっていた。
季節を一つ巡っただけで、こんなにもこの男に身を、心を寄り添おうとする自分がいることに驚きを隠せない。
「お手をどうぞ、お姫様……なんてね」
陽介はそう言いながら、紗希の目の前に、自身の手をそっと差し出した。
紗希はその手に、そっと自分の手を重ねる。
「……」
互いに互いを見つめ、固まってしまう。
先に動き出したのは陽介の方で、首を傾げながら紗希にこう聞く。
「どうしたのー? お姫様」
「……別に」
そう。別に何でもない。
ただ、あなたの手があたたかそうだったから。
春の陽気のように、柔らかで、優しいものに思えたから。
だから、触れてみたくなった。
そう思うのだった。
「? うーん、よくわからないけど、紗希がなんか嬉しそうな顔してるからいいかな!」
陽介がそう言うと、紗希は目をぱちぱちを瞬きさせて少し驚いた表情を浮かべていた。
でも、すぐに目を細めて少しだけ微笑みを見せる。
「嬉しそうなのは、私だけじゃない。あなただって……」
そう言うと、陽介は驚きながらも「そっか」と言って笑みを深めるのだった。
いよいよ、本格的な春の訪れがやってくる。
その春の訪れによって、二人にはどんな影響があるのだろうか。
少なくとも、季節の変わり目は体調を崩す人が少なくともいるという。
二人は、どちらの人間なのだろう。
慣れるまで、時間が掛かるだろうか。それとも、すぐに慣れてしまうのだろうか。
そのどちらであったとしても、二人はお互いの手を離さずに歩いていくことしかできない。契約が、切れるまでは。
だからこそ、今という時間を大事にしたいと陽介は思う。一方で紗希は今という時間をどう思い、どう過ごせばいいのかわからなかった。
このあたたかな日差しのような男を、愛せるのか、愛していいのかさえわからないのだから。
本気になってしまったら、きっとあとでしっぺ返しを食らう。
そう思うと、つい臆病になってしまう。
そして、芽生えつつある感情に蓋をしようと必死にあるのだ。
その愛情という小さな小さな芽を、見なかったことにしようとして……。
紗希は、陽介になんらかの愛情を持っていることは間違いなかった。
でも、陽介は気づかない。そして紗希自身、気づきたくないから気づかない振りをする。
「さーて、今日はこのあとどうする? 久々の休日だよ。紗希」
お互いに、まだ手探り状態で、手を繋ごうとしているような状態。
これから先、しっかりと互いの手を握ることは出来るのだろうか。