「おやすみ」と紗希に言った後、陽介は自分の部屋に戻り、電子書籍を読んでいた。
それは新しく発売されたばかりのビジネス書だったのだが、なんだかちゃんと読もうという気になれなくてスマホの画面を閉じてしまう。ふっと真っ暗になったスマホを充電コードに挿して枕元に置く。
陽介は眠ろうかなと横になって天井を仰ぎ見るも、上手く眠れない。
たまにこんな夜もある。だが、何故だか、今は前と違って紗希の顔がよく思い浮かぶようになった。
まさか、本気で恋や愛といった感情を紗希に持ってしまったのだろうかと、陽介は冷静なままにそう思う。もしそうなら、契約が切れたらどうなるのかと思ったが、それはそこまで心配していなかった。そこまでの感情ではなかったし、何よりもしこれ以上どんどん成長していってしまっても、契約は契約だからそれを守るのが契約を持ち掛けた者の義務だと、そう考えていたからだった。
(それにしても、本当に夫婦みたいになってきちゃうなんてねぇ)
陽介はふと思い出すように笑った。
これまでの紗希とのあまりに噛み合わない夫婦生活というのも、なかなか味があって面白かった。
これからはどうなっていくのだろうか……?
そう思うと、陽介は楽しくなってきてしまってしょうがなくなる。
(あ、そういえば式場……)
そうだ。そういえば結婚式をまだ挙げていなかった。
いい加減、本当に挙げてしまわないと親父に何かとうるさく言われそうだと、さっきまでのいい気分もどこかへ行ってしまって、陽介は父親に対する嫌な感情が溢れてきてしまった。
(悪いことは、早く忘れよう……。とはいっても、あの親父とはいろいろあったから、忘れられないんだよなぁ。昼間なら、紗希といろいろな話をして、忘れられるのに)
そう思いながら、陽介は「結婚するならこれを読めばいい」とよく言われている本をコンビニで買っていたのを思い出し、気を紛らわそうとそれを読んでいた。
いろいろなことが書かれていたが、やはり注目すべきは式場にどれだけの人数を呼べるかだった。
財閥だから仕方がないが、いろいろと呼ばなければならない人が多いため、小さなところでは式を挙げることさえ出来ない。
どんなに厳選したところで、それなりの人数に膨れ上がるのは致し方のないことだ。
(紗希はあまり人数多いと疲れるかもしれないけれど……、仕方ないか。でも紗希ってどんな花嫁衣裳着るんだろう……)
さすがに花嫁衣裳くらいは自分で選ばせてあげたい。こんな生活をさせてしまっているから、というのもあるし、女の子の憧れとよく耳にするからだ。
そんな憧れを、諦めろなんて言うことは陽介には出来ない。
ただ、一緒に考えられるなら、その方がいいかなとは思っていた。
何故そう思うのかは、陽介には容易にわかったが、あえて自分の気持ちに気づかない振りをして、蓋をすることにした。
後々、辛くなる可能性もあるからと……。
さて、そろそろ寝るかなと陽介は目を閉じる。
窓の外から聞こえる雨と風の音が、もう春の香りを落とそうとしていることに気づき、陽介は眠りに就くまでの間、その年の春の終わりを感じていたのだった。
翌日、陽介は外からのあたたかな日差しを感じて目を覚ます。
窓を開けて外を見てみると、庭に植えてある桜が、すっかり葉桜に変わり、その下に桜の花で絨毯が出来上がっていた。
「紗希に教えてあげよう……」
そう思って微笑む陽介は、以前よりも人間らしさがあった。
リビングに行くと、紗希は既に起きていて、朝食の支度をしていた。
陽介に気づいた紗希は「おはよう」と言い、また陽介も「おはよう」と返す。
そして「桜が……」と二人は同じ言葉を言って、タイミングよく重なった。
二人は目を見開いて、お互いを見て少しばかり笑った。
「同じことを思ってたんだね」と紗希が言うと、陽介は頷く。
「なんだか、似てきたかもしれないね」と陽介が言って、紗希は「それはない」と言いながらまた朝食の支度に戻っていく。
「それで? 桜の絨毯でも見に行く? 近くの公園の池とか、桜の花びらで綺麗だろうから、明日くらいに行けば間に合うかも」
「それはいいね、陽介。でも、明日は休みでしょ? 少しくらい、ゆっくりしてくれてもいいんだよ」
「ああ、紗希と一緒の方がなんだか最近は落ち着くんだよね」
「……どういうこと?」
「なんでだろうねぇ。僕と似てきたんじゃない?」
「だから、それはないって」
紗希はくすりと笑った。
前なら絶対に見せなかったような紗希の笑顔を見られた陽介は、ちょっとは信頼してくれているんだなと思うと、嬉しくなったのだった。
もちろん、紗希も陽介のことを信頼している。だが、そのことをまだ自覚はしていなかった。
そして、季節は春から夏へと急激に変わっていくのだった。