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   第二十七話 表情の違い

「……ねぇ、紗希。最近、前よりも顔が柔らかくなった気がするんだけど、気のせい?」

 そんなことを、いつものように朝食をとっていた時に、陽介がぽつりと言った。

「顔が……柔らかく?」

 紗希は箸を手にしたまま少し首を傾げる。

「うん。前はもっとこう、キリッとしてて、あんまり感情が出てないように見えたけど、最近はわかるようになってきた。たとえば、今ちょっとびっくりしてるでしょ?」

「……うそ。そんなに出てる?」

「うん。出てる出てる。そういうとこ、見ていて面白い」

 そう言って笑う陽介に、紗希は小さく息をついて、少しだけ目をそらした。

「……自分では、そんなに変わったつもりはないんだけどな」

「変わったよ。いい意味でね。なんていうか、ちゃんと一緒に生きてるって感じがする」

 それは陽介が、心から思ったことだった。

 二人の間に流れている空気は、少しずつだけれど確実に、確かなぬくもりを持つものへと変化していた。

 紗希の顔にも、ふとした時に柔らかい笑みが浮かぶようになったし、何より彼女の言葉には以前よりも陽介への信頼がにじむようになっていた。

 そして陽介は、そんな紗希の変化にいち早く気づいていたのだ。

「……じゃあ、陽介も。前より、ずいぶん話し方が優しくなった気がするよ」

「えっ、そう?」

「うん。昔はもっと……なんていうか、ビジネスライクって感じだった」

「それ、結構冷たかったってことじゃん」

「まあ、そうね。あたたかな人ではあったけれど、冷たいところも結構持ってたように感じてた。そうじゃないといけない立場だし、仕方のないことだと思う。でも、今は違う。ちゃんと、家族っぽいっていうか……」

 紗希の言葉に、陽介はほっとしたように頷いた。

 どこか、心がほんのりと温かくなる瞬間だった。

 二人の間にあった距離は、確かに縮まっていたのだ。

「じゃあさ、そろそろ……本格的に、家族っぽいこと、始めてみようか」

「え……?」

「今までさ、形ばかりの夫婦って感じだったじゃない? でも、もう少し自然に、当たり前みたいに一緒にいるような、そういうふうにしたいなって」

 陽介の言葉に、紗希はしばらく黙って考えた。

 確かに、今のふたりはある意味で奇妙な関係だ。

 夫婦でありながら、どこか他人行儀で、まだ本当の意味で「家庭」にはなっていない。

 でも、それを変えたいと思うのは、悪いことではないはずだ。

「……それって、具体的にはどうするの?」

「例えばだけど、朝ごはん一緒に作るとか、一緒に買い物に行くとか? もっと小さなことでいいんだ。何気ないことを共有するっていうのが、家族って気がするから。いつもいろいろ……、任せてばかりだったしね」

「ふーん……。そういうの、意外と陽介の方が夢見がちだよね」

「えっ!? 夢見がちって!」

「だって、そうじゃない? いつも意外とロマンチックなこと言うし」

 そう言って微笑んだ紗希に、陽介は少し赤面しながらも笑い返した。

 こうして笑い合える今が、何よりも心地よい。

 そして、ふたりはその日の晩、一緒に近所のスーパーへと買い物に出かけた。

 人目を気にせず並んで歩くことができるようになったのは、ごく最近のことだ。

 以前の紗希なら、人前で手を繋ぐことすらためらっていた。

 でも今は、陽介の方から差し出された手に、自然と手を伸ばせるようになっていた。

 スーパーでのやり取りも、ごくありふれたものだった。

「トマト、今日ちょっと安いね」

「パスタにでも使う?」

「うん、それいいね。じゃあバジルも買って……あっ、モッツァレラチーズもあるかな」

「おっ、やる気満々だね」

 まるで、新婚カップルのようなやりとり。

 周りの人たちの目も、まるで本当の夫婦を見るような優しい視線だった。

(ああ、こうやってふたりで日常を過ごすって、悪くないかもしれない)

 紗希は、ふとそんなことを思っていた。

——形から始まった関係でも、ちゃんと心は追いついてくる。

 そう思えるようになったのは、きっと陽介がずっと変わらず隣にいてくれたからだ。

 そして家に帰ってから、ふたりはキッチンで料理を始めた。

 陽介が野菜を切り、紗希がソースを作る。

「うーん、これでいいのかな……ちょっと味見してみて」

「……うん、いいと思うよ!」

「ほんと?」

「うん、完璧。紗希には料理のセンスがあるよ」

「……それはちょっと、嬉しいかも」

 そんな他愛もないやりとりが、紗希にはとても新鮮だった。

 恋とか、愛とか、まだ自分達でもはっきりわからない。

 けれど、少なくとも今——この瞬間だけは、陽介と過ごす時間が特別に感じられる。

 二人で食卓を囲み、パスタを食べて笑う。

 どこか夢のような、でも確かに現実の風景。

 紗希はふと、窓の外に目をやった。

 そこには、少しずつ色を変えていく初夏の空が広がっていた。

 陽介と一緒にいると、いつも季節の移ろいがやけに鮮やかに感じられる。

 そしてそれが、少しだけ嬉しいのだ。

「ねぇ、陽介」

「うん?」

「……ありがとう。いろいろと、ね」

「こちらこそ。こんな素敵な表情、最近たくさん見せてくれるようになった紗希に、感謝しないとね」

 二人の距離は、もう他人同士ではなくなっていた。

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