「ねえ、ちょっとそこのカフェで一休みしようか」
陽介がそう言って、視線の少し先にあるカフェを指さして紗希に向かってにこりと微笑む。
珍しい……と思った。
今まで陽介の秘書をしていたが、昼休みにカフェに行くことなんてそうなかったのにと少しだけ驚いた。
確かに、何回か「一人でカフェに行ってくる」と言ってコーヒー片手に帰って来ることはあった。
しかし今回みたいに紗希を連れてカフェで一休み……というのは久々なのだった。
「……珍しいですね」
思わずそう呟くと、陽介は肩をすくめて笑う。
「僕を何だと思ってるの。普通の人間だよ。カフェにだって行くよ。ここのカフェはね、マフィンが美味しくて、コーヒーも季節やその時だけの限定ものも多いから、飽きないんだ。ぜひ、君にもと思ったんだよね。紗希」
「それはありがとうございます……って、なんですか。この手は」
陽介は紗希の手を繋いで、返事を聞く前に歩き出した。
「あ、ちょっと……! 陽介っ」
紗希が慌てた声を出すも、陽介はくすっと笑うだけで、その足を止めない。
「今は昼休み。休みなんだから、僕と一緒にコーヒー飲んで、美味しいマフィンを食べるくらいはいいんじゃないの?」
「それは、そうだけど……」
「もしかして、味にうるさいタイプだったりする?」
「今まで私が味について文句を言ったことがあった? ないでしょ……」
「そういえばそうだね。それはそれで寂しいや。ね、僕の奢り。一緒に食べよう。すみません。店内でいただきます。……そうだなぁ、この夏のアイスコーヒーとブルーベリーマフィンとチーズベリーマフィンを一個ずつ。あ、マフィンは両方とも温めてください」
随分と手慣れた様子でそのカフェで注文をして、席に座って待っている。
紗希も陽介の目の前の席に座り、若干落ち着かない様子で辺りをきょろきょろと見回した。
「紗希、どうしたの?」
「いや、あの、こういうところ、来るの久々だったからつい……」
「ああ、そうか。そういえば君と一緒にカフェっていうのは、あまりなかったからね」
しばらくしてコーヒーとマフィンが運ばれてきて、二人はそれを楽しんだ。
コーヒーは夏らしいさわやかなブレンドで、飲みやすいものだった。
マフィンは陽介が認めるだけあって、丁度良い甘さで美味しく、そして何故だか心がほっとした。
「美味しいでしょ?」
にこにこと笑顔でそう聞いてくる陽介に、紗希は正直に首を縦に力強く振った。
「あはは、そんなに美味しく思ってもらえるなんて、連れてきてよかったよ」
「本当に、美味しいから……。程よい甘さだし、コーヒーともよく合う」
「そうだよね! よかった、君が喜んでくれて」
二人は店内の心地よい音楽に耳を傾けながら、自然と会話が生まれていく。
これからもっと二人で楽しく過ごしたいねといったものなど、仕事から離れた日常の話をするのが心地よい。
少し開いた窓の外からは車の音や人々の喧騒がわずかながら聞こえる。
こんな、平和なひと時が二人は堪らなく好きだった。
そして喫茶店を後にするとき、二人はマフィンを追加で購入し、それが入った紙袋を手に会社に戻る。
会社では「休憩も仕事の内だからね」と陽介は必ずある程度の時間が経ったら小休憩を入れるようにしている。
それは会社全体がそうで、休憩を取りやすい環境にある。
休憩を取りたい時間などは個人の自由だから、この制度に文句はそう出ることもないのだった。
「そういえば、ここまで休憩しろって言ってくる会社ってなかなかないと思うけど、どうして陽介はこんなに休憩を入れることを推奨するの?」
「ん? それはね、その方が効率がいいからだよ。当たり前と言えば当たり前だろうけれど」
そう言って、陽介は仕事にざっと目を通してからマフィンをちらりと見てからにこっと笑顔になって紗希を見つめる。
「いい仕事をしてもらうために環境を整えるのは経営者として当たり前だよ」
「それもそうだね。……ごめん」
「なんで謝るの? おかしな紗希」
「いや、ほら、……当たり前すぎたから、ごめんって思った」
「いいから、もうそろそろ、仕事しようか。こっちこそ、ごめんね。つまらない話に付き合わせてしまって」
「いいよ。謝る必要もないし、つまらない話じゃないから」
そこへ、陽介の私用のスマホから着信音が流れ始める。
「げっ、僕のスマホに直接連絡してくるのなんて、一人くらいしか思い浮かばないよ……。嫌な予感がするなぁ」
そう言いながら、陽介は電話に出た。
「もしもし。……親父? 何。結婚式ならまた今度正式に、盛大に、お望みどおりに開くけど……。いや、その話は……。今からって、残業させる気? やめてくれない?」
少しずつ、陽介が苛立っているのが先に伝わってきた。
どうやら陽介は父親からいつものように何かを言われているようだった。
しばらくして電話を切った陽介は、大きく長い溜息をして、紗希にこう言うのだった。
「親父が跡継ぎはまだかって……」
「……はあ」
紗希はそう答えるしかなかった。
契約結婚では、確かそこまでする必要はなかったはずと契約内容を思い出していた。
紗希は感情が置いていかれているような気がしながらも、陽介に話を聞くのだった。