「跡継ぎを私は生まなくちゃいけないの……?」
「いや、紗希にそんな負担は掛けられないよ。そこまでしなくてもいいから……。それにしてもあのクソ親父。よくも夫婦の仲のことにああずけずけと物を言えるもんだ」
「……まあ、会長ならありそう」
「ありそうじゃなくてあるんだよ。なんだか、結婚式よりも跡継ぎの方が大事だから跡継ぎを先にして後から結婚式でもいいなんて馬鹿なことまで言ってるんだよ。本当にあり得ない」
陽介は珍しく怒っていた。
「大体、僕のことはまだいいけれど、紗希のことをただ子どもを産むためだけの道具みたいに見るのが許せないんだよね……」
そう言われて、紗希は自分が陽介に大切にされているということがわかったような、そんな気がした。
しかし、問題はそこではない。
あの会長のことだから、跡継ぎを作れない正当な理由を作っておいた方がいいことは確実だ。
「あの……陽介、跡継ぎを作れない理由って、作っておいた方がいいんじゃないかな。たとえば、私が子どもが出来にくい体とか……」
「それは……使うに使えないね。あの親父のことだから、後々しっかりした証拠とか見せろって言ってくるに違いないよ。一時的には時間稼ぎが出来るだろうけど」
そうなると、少し難しいか……と紗希は思った。
婦人科から診断書を出されているわけでもないし、もし嘘だとバレたら契約結婚のこともバレてしまうかもしれない。
そう考えると、リスクを背負ってまでそれを言うということはちょっと考えられないのだった。
かと言って、何も対策がないというのも……と考え始めた紗希だったが、陽介が「もう正直に言おう」と言い出して紗希は少しばかりぎょっとした。
「契約のことを、教えてしまうの?」
そう恐る恐る聞いたが、陽介は「そんなバカなことはしないよ」と笑った。
「ただ、僕達には僕達のペースがあるんだってことを言うだけだよ。全部親父達みたいに早くしなくちゃいけないような時代じゃないしってね。それだけで納得するような人ではないけれど、何も言わないよりはマシだから」
そうは言っても……と不安に思う紗希に陽介は優しく微笑む。
「大丈夫。紗希はいつものようにクールに、でも優しく微笑んでそこにいてくれればいいから。僕は紗希のことが本当に好きになってしまったみたいだし、君を傷つけることはしないって契約だからね」
一瞬、頭の中にはてなが浮かんだ。
紗希はもう一度「え? 好きになったって、誰を? 何を?」と聞いてしまう。
すると陽介は「君をだよ」と当たり前のように言った。
「からかわないで」
「からかってなんかないよ。ただ、本当に君のことが好きになってきちゃったんだ。毎日を一緒に過ごしているとね、君のその不器用なところも器用なところも、表情の違いさえもわかるようになって……。これが愛しいって気持ちなんだなってわかったんだ」
とても愛しいものに語り掛けるようにそう言う陽介。
紗希はそんな陽介に何と言葉を掛ければいいのかがわからずにいた。
そうこうしている間に、また陽介のスマホに電話が掛かって来る。
相手はまたも、陽介の父親だった。
「親父、まだ何かあるの? ……は? 明日来いって、確かに休みだけれどなんでそれに従わないといけないの。僕達、明日は家でのんびりするつもりだったんだけど。……跡継ぎのことだから優先しろって、それはそっちの言い分であってこっちの生活に干渉してもいい理由にはならないでしょ。……。あー、もう。わかった。わかったから。はいはい。じゃあ、また明日」
陽介は先ほどよりも苛立ちを抑えられないといった様子で、電話を切り、椅子にどかりと座った。
それからしばらく言葉を発さずに天井を仰ぎ見て、やがて紗希にこう言う。
「ごめん。明日急遽実家に行くことになった。紗希も一緒に」
紗希は面倒だなぁと思うと同時にとても緊張すると思うのだった。
あの会長のことが正直紗希は苦手だし、この契約のことがバレてしまいそうなそんな気がする。
何より、自分にとってあまりよくないイベントであることは確かだった。
「まあ、紗希に何かされないように僕が目を光らせておくから、あまり心配しないでいて」
「う、うん……。服装とか、何か決まりある?」
「あまりボロボロの服を着られると困るえkど、そういうのはなさそうだから安心しているよ。あと、お揃いの指輪は、しようか……」
「そうだよね。わかった」
陽介は机の引き出しからさっと小箱を出し、そこから指輪を出した。
そしてそれを先の左手薬指に……。
「本来あげるつもりのものとは違うもので、こういう時のための緊急用の指輪だよ。あげるから、これから本当の指輪が出来るまではつけていてほしい」
紗希は指輪を少し指でなぞって、陽介を見つめるのだった。