(さて、ついこの間この門をくぐったばかりだったけど、こんなに早くにまた来ることになるなんて)
紗希は滅多に着ない着物を着て、陽介と共に陽介の父、龍之介の元に訪れていた。
着物を着たのは陽介からのアドバイスのような言葉によるものだった。
「親父は和が好きだから、着物着たら、話がそっちに変わるかもしれない。時間稼ぎには、なると思う」と言っていたのだ。
「ねえ、本当に私、似合ってるの?」
「……紗希は、本当に着物が似合うよ」
「でも、フリルやレースはさすがにもう……」
紗希の来ている着物は、陽介が特別に仕立てさせたレースやフリルが上品にあしらわれた着物だった。紗希は自分が着るには若すぎると思っているが、陽介は似合えばいいし、好きなものを着ればいいと思う人だから全くそんなことを気にしてはいない。
「ほら、行こう。紗希」
陽介は紗希の手を握って、ゆっくりと歩き出す。
紗希も、慣れない草履を履いて歩いていく。
そして屋敷の中に入った陽介達は使用人に案内されて龍之介の待つ居間に入るのだった。
「来たか……。ん? 今日は着物なんだね。似合っているよ。とても」
龍之介が紗希に一瞬だけ見せた笑顔は、陽介にとても似たものだった。
こんな温かな表情を、龍之介も出来るのだと思うと、紗希はなんだか不思議な気持ちになった。
しかし、やはりその笑顔は一瞬だけで、すぐに人を試すような笑みを浮かべるのだった。
「さて、陽介。いつになったら跡継ぎを作るんだ?」
(歯に衣着せぬ……ってこのことだよな。本当に、親父は。女性がいるってのに、酷いことを平気で言う……。だから僕は、この人のことが心底嫌になるんだ)
陽介は嫌悪感を表情に出さずに、にこにこ笑いながら「それは今、答えられないことだよ」とだけ言う。
「まさか不妊なんて言わないだろうな?」
「知らない。調べてないから。大体、そういうことに口を出すなんて、時代錯誤だよね。だから頭が古いままで更新されない親父は堅物って言われるんだよ?」
「お前のようになんでも受け入れているようだと自分の立場さえも崩されることがわからないのか。だから軟弱で優柔不断だと言われるんだ」
二人はあくまでも和やかな口調で言い合う。
いや、言い合うというのもおかしな話かもしれない。
まったく相手を責め立てるつもりのない、遊びのような言葉だったのだから。
だが、言葉の中には本心も、もちろん入っている。
紗希はこの二人の「遊び」についていけず、少しばかり心臓がどきどきと脈打つのを感じていた。
本当に、この親子の遊びはあまり好きではない。
表に出ないからとはいえ、互いを傷つける言葉を言い合うし、その割に穏やかに言葉を紡いで表面上は笑顔……。
タヌキとキツネの化かしあいのようにも思える。
「結婚しただけで、いつまでも式も挙げなければ子どもも作らない。それでは家を継がせることはまだまだ先になりそうだな。それとも、継ぐ気がないのか。こちらのお嬢さんは、お前の装飾品と一緒か?」
「ハッ、親父と一緒にしないでほしいんだよな。親父は母さんを装飾品として見てたんだろ。だからそういう考えに至るんだ。僕は違うから」
「どこが違うんだ。見せつけるためだけに……。お嬢さんを騙すようにして、自分の嫁にしたんだろう? 親の目から、世間の目から逃れるために」
「いや? 本当に紗希のことが好きなんだ。それは間違いないよ」
「それは……か」
龍之介は笑い出した。
おかしいものというよりも、駄々をこねる子どもを見るように。
本人は必死であっても、本人以外はそれを冷ややかな目で見ている、というものと近いのかもしれない。
龍之介は、笑い終わると陽介ではなく紗希にこう切り出した。
「お嬢さん、悪いことは言わない。離婚した方がいいよ」
紗希は固まり、陽介は何を言うつもりだろうと思いながらも龍之介を見ているだけだった。
にこりと微笑みながら、龍之介は続ける。
「こいつにそそのかされたのだろうが、財閥の嫁ほど苦労するものはないと言っても、おかしくはないと思うのだがね。特に、普通の暮らしをしてきた君のような一般人が務まるかどうか……。秘書としての能力は高いようだが、どうにも、今一つ君には華がないように感じられる」
「……そう、ですか」
「紗希、親父のことなんて放っておいて大丈夫だから。紗希のことは僕が守るし、紗希は僕だけを見ていればいいよ」
紗希の白い手を握る陽介は、龍之介を少しだけ睨む。
「紗希に変なことを吹き込まないでほしい。言っただろう。僕達は愛し合っているんだ。だから、結婚したんだ。財閥がどうとか、関係ない。その気になれば僕は……」
「一人息子だからと、何でもしていいと思っているのか? 思っているよりも、お前は簡単に切り捨てられることもあり得るというのに」
陽介からイライラとした雰囲気が紗希に伝わってきた。
紗希は、咄嗟にある言葉を言うのだった。