図書館の静寂が
「この場所には、言葉を交わさなくても通じ合える何かがある」
そんな日常の中、彼女と出会ったのは偶然だった。
健太が参考書を探していると、隣の棚で本を選んでいた女性が足を滑らせ、バランスを崩した。健太は反射的に彼女を支えた。
「大丈夫ですか?」
彼女は振り向き、健太を見つめた。その瞬間、健太は息を呑んだ。透き通るような瞳と、穏やかな微笑み。彼女は会釈をしたが、何も言わなかった。
健太が再び
「大丈夫ですか?」
と尋ねると、彼女はスマートフォンを取り出し、何かを打ち込んだ。
「ありがとう。聞こえないので。
健太は少し驚いたが、すぐに自分のスマートフォンを取り出し、返事を打った。
「森脇健太です。こちらこそよろしく。」
それが、彼らの物語の始まりだった。
その後、健太は図書館で美咲を何度か見かけるようになった。彼女はいつも一人で勉強していた。ある日、勇気を出して彼女の隣に座り、メモ帳を使って会話を始めた。
「いつもここで勉強しているんですか?」
美咲は笑顔で頷き、返事を書いた。
「ここは静かで落ち着くから好き。あなたも?」
健太は
「うん、同じ理由です」
と答えた。
徐々に二人の距離は縮まり、LINEを交換するまでになった。健太は美咲との会話が楽しくなっていくのを感じた。彼女は聴覚に障がいがあるにも関わらず、ユーモアのセンスがあり、物事に対して前向きだった。
ある日、美咲は健太にメッセージを送った。
「大学の手話サークルに来てみない?初心者でも大丈夫だよ」
健太は迷わず承諾した。
手話サークルの顧問、小林先生は優しく健太を迎えてくれた。
「中村さんから聞いていましたよ。一緒に頑張りましょう」
最初は指の動きもぎこちなく、健太は戸惑いを隠せなかった。しかし、美咲が隣でゆっくりと教えてくれる。彼女の手の動きには、言葉以上の表現力があった。
「あ・い・う・え・お」の指文字から始め、徐々に簡単な挨拶や日常会話を学んでいった。
親友の拓也には冗談で
「お前、急に手話に目覚めたな」
と言われたが、健太は照れながらも
「ちょっと興味があって」
と答えるのが精一杯だった。
「もしかして、好きな人でもできたのか?」
と拓也に問われ、健太は黙ってしまった。そのリアクションで全てを悟った拓也は、
「応援してるぞ」
と背中を叩いてくれた。
サークル活動を通じて親しくなった二人だったが、健太は美咲に自分の気持ちを伝えることをためらっていた。それは、両親の反対を予想していたからだ。健太の両親は保守的な考えを持っていて、健太の交際相手について、特に障がいのある人との交際については、反対する可能性が高いと彼は考えていた。
ある日、美咲と映画を見に行った時、健太は字幕付きの映画を選んだ。しかし、予約の行き違いで字幕なしの回になってしまった。健太は謝ろうとしたが、美咲は
「大丈夫、一緒にいるから楽しい」
とメッセージを送ってきた。
帰り道、美咲は急に立ち止まり、スマホに打ち込んだ。
「私の世界を特別扱いしないで。聞こえなくても、感じることはできるから」
その言葉に健太は胸を打たれた。彼は必死で手話を使って伝えた。
「ごめん。僕は君のことをもっと知りたい。理解したい」
美咲の目に涙が浮かんだ。それは悲しみの涙ではなく、理解してもらえた喜びの涙だった。
手話の技術が上達するにつれ、健太と美咲の会話も深まっていった。ある日、二人で河原に座っていると、美咲が健太の手を取り、自分の喉元に当てた。
「感じて」
と彼女は手話で伝えた。
健太は彼女が発声練習をしているのを感じ取った。振動として伝わる彼女の声。それは健太にとって最も美しい音楽のようだった。
「私の声を聞いてくれる人は初めて」
と美咲は照れながら手話で伝えた。
健太は手話で答えた。
「美しい声だよ」
その日、健太は初めて美咲に
「好きだ」
と手話で伝えた。美咲の顔が明るく輝き、彼女も同じ気持ちを手話で返した。
健太は両親に美咲との交際を打ち明けた。予想通り、両親は強い反対を示した。
「美咲さんのことを悪く言うつもりはないが、健太の将来を考えると心配だ」
と父は言った。
「健太には、もっと普通の女性と付き合ってほしい」
と母は涙ながらに訴えた。
健太は両親の心配を理解しつつも、自分の気持ちを伝え続けた。何度も話し合いを重ね、美咲との真剣な交際、そして将来への強い意志を両親に示した。健太は、美咲との幸せな時間を写真や動画で示し、手話を通して美咲の人となり、彼女の明るさや優しさ、そして健太への愛情を伝えようとした。
両親は、健太の強い気持ちと、美咲の誠実さ、そして二人の愛情に触れ、徐々に心を開いていった。美咲と直接会う機会を作り、美咲の人となりを理解するにつれ、反対する気持ちは薄れていった。
大学卒業を控えた健太は、就職活動と並行して手話通訳士の勉強も始めていた。美咲は健太のその姿勢に感動した。
「将来は手話を使った仕事がしたい。聴覚障がい者と健聴者の橋渡しができるような」
と健太は語った。
美咲はそんな健太を見つめ、
「私があなたを変えてしまったかな」
と手話で尋ねた。
健太は首を振り、はっきりと手話で答えた。
「違う。君は僕に新しい世界を見せてくれた。言葉を超えたコミュニケーションの大切さを教えてくれた」
美咲の目に涙が浮かんだ。それは悲しみの涙ではなく、理解してもらえた喜びの涙だった。
その瞬間、言葉は必要なかった。二人の気持ちは、すでに通じ合っていたから。どんな困難も乗り越えられると信じていた。手と手を取り合い、二つの世界を繋ぐ架け橋となって。