やや、交通量が多い大通りに設置された歩道橋。
「何してんだよ!危ないだろっ!」
と言った。
「私のことなんか、放っておいてよ!」
「…お前、やり残したことはないのか?本当は、もっと生きたいんじゃないのか?」
千夏は、ぼろぼろと泣き出してしまった。涙に濡れた千夏が、聡の腕の中で小刻みに震えていた。
「もう…どうしようもないの…」
彼女はすすり泣きながら言った。
「私、会社をクビになって…家賃も払えなくて…家族にも迷惑かけて…生きていく理由がないの…」
聡は千夏をしっかりと抱きしめたまま、ゆっくりと歩道橋の手すりから離れるように導いた。
「とりあえず、ここから離れよう。話を聞かせてくれないか?」
彼の声には不思議と温かみがあった。千夏は抵抗する力もなく、黙って頷いた。
二人は歩道橋を降り、近くの小さな公園のベンチに腰を下ろした。春の夕暮れ時、桜の花びらが風に舞い、ほのかに甘い香りが漂っていた。
「俺、若槻聡っていうんだ。君は?」
「柊木…千夏」
「柊木さん、どうしてそんな考えになったの?」
千夏は目を伏せたまま、断片的に自分の状況を話し始めた。新卒で入った会社での失敗、パワハラ上司との確執、そして突然の解雇通知。実家に帰るのも恥ずかしく、このまま消えてしまいたいと思っていたところだった。
聡は静かに彼女の話を聞いた後、ポケットからスマホを取り出した。
「実はさ、俺、去年まで同じような状況だったんだ。会社もダメ、借金も溜まって…でも、今こうして生きてる」
彼はスマホを千夏に見せた。画面には小さなカフェの写真があった。
「ここ、『はじまりの一歩』っていう俺のカフェなんだ。小さいけど、去年オープンしたばかり。実は今、人手不足で困ってたところなんだ」
千夏は困惑した表情で聡を見つめた。
「私を…雇ってくれるってこと?そんな、初対面の私を…」
「別に慈善事業じゃないよ」
聡はほほ笑んだ。
「本当に手伝いが必要なんだ。それに…」
聡は空を見上げた。
「俺も誰かに助けられたから今がある。だから、今度は俺が誰かの力になれたらって思ってるだけさ」
千夏の目から再び涙がこぼれた。しかし、今度の涙は絶望からのものではなかった。
それから三ヶ月が過ぎた。
「いらっしゃいませ!」
千夏の明るい声がカフェに響いた。彼女は笑顔で客を迎え入れながら、テキパキと注文を取り、コーヒーを淹れていく。
カフェ『はじまりの一歩』は、駅から少し離れた住宅街の一角にあった。広くはないが、温かみのある内装と美味しいコーヒー、そして手作りのお菓子で、近所の常連が徐々に増えていた。
千夏は最初、何もできない自分に自信がなかった。しかし、聡の根気強い指導と励ましで、彼女は少しずつカフェの仕事を覚えていった。彼女の真面目さと明るい接客は、お客さんにも好評だった。
「千夏、ちょっといい?」
閉店後の片付けをしていると、聡が声をかけてきた。
「実は新しいメニューを考えてるんだ。君のアイデアも聞かせてほしくて」
二人は残りのケーキを前に、新メニューについて話し合った。気づけば、小さなテーブルを挟んで、笑いあう時間が増えていた。
半年後、カフェは地元の雑誌に「隠れた名店」として紹介された。取材の日、千夏と聡は誇らしげに店の前で写真を撮った。
「聡さん、ありがとう」
千夏は小さく呟いた。
「何が?」
「あの日、私を止めてくれて…この場所に連れてきてくれて…生きる理由をくれて」
聡は照れくさそうに頭をかいた。
「俺こそ、君が来てくれて助かってる。一人じゃここまでカフェを良くできなかった」
彼らの間には、もう言葉にしなくても伝わる絆が生まれていた。
一年後の春、桜が満開の日。
カフェの二階を改装し、小さなイベントスペースのオープニングパーティーが開かれた。地元の音楽家による演奏を聴きながら、集まった常連客たちは楽しいひとときを過ごしていた。
パーティーの終わり際、聡がグラスを手に立ち上がった。
「今日は皆さん、お集まりいただきありがとうございます。実は、もう一つ大切なお知らせがあります」
彼は千夏の方を見た。彼女は何が起こるのか予想もつかず、キョトンとした表情をしていた。
「柊木千夏さん」
聡は彼女の前に膝をついた。
「君と出会えたことが、俺の人生最大の幸運だった。これからも一緒に、このカフェを…いや、人生を歩んでいきたい。結婚してください」
場内からどよめきと拍手が沸き起こる中、千夏は両手で口を押さえ、目に涙を浮かべていた。
「はい…!」
彼女の返事に、店内は大きな拍手と祝福で包まれた。
あれから三年が過ぎた。
カフェ『はじまりの一歩』は、今では地域の人々の憩いの場として欠かせない存在になっていた。二階のイベントスペースでは週末ごとに様々な催しが開かれ、多くの人が訪れる。
そして今日、特別なゲストがやってきた。
「おかあさん、あのケーキください!」
千夏と聡の間に生まれた二歳の娘、陽菜が、ショーケースのケーキを指さしながら言った。
「はいはい、どれにする?」
千夏は優しく微笑みながら娘に尋ねた。
「いちごのやつ!」
「いい選択だね」
聡は娘の頭をなでながら言った。
「お父さんが今朝焼いたんだよ」
三人の笑顔がカフェに溢れる。窓の外では、また新しい春の桜が咲き始めていた。
かつて絶望の淵にいた千夏が今、確かな幸せを掴んでいる。それは決して派手な人生ではないかもしれない。しかし、日々の小さな喜びと、互いを大切に思う気持ちに満ちた、かけがえのない日常だった。
時に人生は、終わりのように見える瞬間が、実は新たな始まりだったりする。
柊木千夏と若槻聡の物語は、絶望から希望へ、そして真の幸せへと続いていくのだった。