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第16話  村瀬さんと徳田くんの場合

 徳田修一とくだしゅういちは、静かな住宅街の一角にある訪問介護・看護の事業所でケアマネージャーとして働いていた。32歳。淡々と仕事をこなしつつも、どこか他人との間に一線を引いているような雰囲気があった。


ある春の日、彼は新たな利用者の自宅を訪れた。村瀬遥むらせはるか、27歳。診断名は双極性障害。紹介状には「軽躁状態とうつ状態を繰り返す」「対人関係に困難あり」と書かれていた。


玄関先で出迎えた遥は、長い髪を後ろで一つにまとめ、部屋着のままこちらを見つめていた。


「……ども」


それが最初の言葉だった。



徳田は軽く会釈し、訪問記録のファイルを手に持ったまま靴を脱いだ。


「失礼します。今日は簡単にお話をうかがいに来ました」


「……話すこと、あんまりないけど」


遥は目を合わせようとせず、ソファに腰を下ろした。リビングは整ってはいたが、どこか空気が淀んでいるようにも感じた。カーテンが少しだけ開いて、春の光が床に斜めの影を落としていた。


徳田は距離を取りつつ、向かいの椅子に腰を下ろす。


「無理に話さなくて大丈夫ですよ。僕はケアマネージャーの徳田といいます。これから関わらせてもらうことになりますので、よろしくお願いします」


「……よろしく」


その日は、病歴や生活のリズムについて、必要最低限のことだけを聞いて終わった。遥は表情をあまり変えず、どこか壁を作るような受け答えをしていたが、それが無理もないことだと徳田は理解していた。



最初の訪問から数週間が経ち、徳田は定期的に遥のもとを訪れるようになった。彼は余計な詮索はせず、ただ淡々と話を聞くことに徹していた。


ある日のこと。春の終わりを告げるように、少し汗ばむ陽気の日だった。


「……徳田さんって、いつも落ち着いてますよね」


遥がふと口にした。


「そうですか? 自分ではあまりそう思っていませんけど」


「なんか、無理にこっちのこと引き出そうとしないし……安心する」


彼女の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


「遥さんのペースでいいと思っていますよ。無理しないことが一番ですから」


遥は少し目を伏せて、それから静かにうなずいた。


「……最近、朝起きるのが前よりちょっとだけ楽になりました」


「それはすごくいい傾向ですね。何かきっかけがあったんですか?」


「うーん……たぶん、誰かにちゃんと話を聞いてもらえるって、思えたからかも」


徳田は、ふと目を見開いて、それから小さく微笑んだ。


「それは、光栄です」


遥も、少しだけ笑った。小さな、けれど確かな笑顔だった。


次の訪問は雨の日だった。外は静かにしとしとと降り、街の喧騒もどこか遠くに感じられた。


「雨、嫌いなんですよね」


遥は、窓の外を見つめながらぽつりとつぶやいた。


「そうなんですね。低気圧のせいで、体調も崩れがちになりますしね」


「それもあるけど……思い出すから、いろいろ」


徳田は少しだけ目線を下げて、彼女の言葉の続きを待った。急かさず、ただそこにいる、という空気を作る。それが、彼のやり方だった。


「大学の頃に、初めて本格的に倒れたんです。身体が鉛のように重くて、自分でも寝てるのか泣いてるのかもよく分からなくて……」


遥の声は震えてはいなかった。ただ、どこか自分を遠くから見て話しているような、そんな響きだった。


「そのとき、親にはすごく怒られて……“甘えるな”とか、“根性が足りない”とか、そんなのばっかりで」


徳田は静かに頷いた。遥はそれを見て、少し肩の力を抜いたように見えた。


「……それ以来、人と話すのがこわくなって。こうしてちゃんと話せるようになったの、たぶん、初めてかも」


「ありがとうございます、そんなふうに思ってもらえて」


彼はまっすぐに彼女を見た。


「僕もね、人に話すのは得意じゃないんです」


「え?」


「仕事だから話してるけど、もともとは無口で、何を考えてるか分かりにくいってよく言われてました」


「今でもそう思うけど」


遥は思わずくすっと笑った。そこに、少しだけ春の名残のようなあたたかさが宿った。


「でも……ちゃんと届いてます。徳田さんの言葉も、気持ちも」



季節は巡り、夏が始まろうとしていた。訪問のたびに、遥の表情は少しずつ明るさを増していた。


ある日、彼女は冷たい麦茶を出してくれた。


「今日は少し、話してみたいことがあるんです」


「はい。なんでしょう?」


「……今の自分で、どこまで社会と関われるのか、まだよく分からない。でも、ちょっとだけ、働いてみたいって思うようになりました」


「それは大きな一歩ですね」


「きっと、徳田さんがいてくれたからです」


その言葉に、徳田は少しだけ目を伏せた。


「僕は……ただ、そばにいただけです」


「それが、一番難しいことなんですよ」


遥はまっすぐに彼を見た。


夏が終わりに差しかかり、蝉の声もどこか遠ざかって聞こえるようになった頃。遥は週に二回、近所のパン屋でレジ打ちのアルバイトを始めていた。


「今日は、お客さんに“ありがとう”って言ってもらえました」


訪問の日、遥はそう言って、ふふっと笑った。


「それはうれしいですね」


「なんか、ほんとに、ほんの少しだけど……自分が、誰かの役に立ってるのかなって」


修一は、その笑顔に見とれていたことに気づき、慌てて視線を逸らした。


「……徳田さんって、休日とか、どうしてるんですか?」


遥の問いに、修一は少し戸惑ったように笑った。


「……あんまり出かけたりしないです。家で映画見たり、散歩したり、それくらいですね」


「えー、なんか意外。もっとアクティブな感じかと」


「よく言われます。でも、たぶん、あまり人付き合いが得意じゃないからかも」


遥はその言葉に、少し黙ってから言った。


「……それって、昔から?」


修一は一瞬ためらったが、少しずつ言葉を紡いだ。


「……弟が、昔事故で亡くなって。それがきっかけで、家族もばらばらになって……それから、誰かと深く関わるのが怖くなったんです」


遥は、そっと口をつぐんだ。


「……つらかったですね」


「もう、10年以上も前のことです。でも、あのとき、“ちゃんと誰かがそばにいてくれたら”って、今でも時々思います」


「……わたしも、そう思ってた。病気のこと、理解してくれる人がいたら、きっともっと違ったんじゃないかって」


修一は、静かに頷いた。


「……だから、今、遥さんのそばにいることは、僕にとっても意味のあることなんです」


遥は、目を見開いたまま、その言葉を受け止めた。


「……じゃあ、私だけじゃなくて、徳田さんにとっても、大事な時間なんだ」


「ええ、そうです」


そう答えた修一の声は、どこまでも優しかった。



夏の終わり、遥はパン屋の帰り道に、小さなひまわりを一輪買った。次の訪問の日、テーブルの上にそれが飾られていた。


「ひまわり、好きなんですか?」


「うん。なんか、元気そうでしょ。太陽のほう向いて、まっすぐ伸びてるの、いいなって」


修一はその言葉にうなずきながら、ふと尋ねた。


「……来週の休み、もしよかったら、一緒にどこか行きませんか? 散歩でも、どこか景色のいいところとか」


遥は一瞬驚いたようだったが、すぐに頬を赤らめて、小さく微笑んだ。


「……行きたいです。きっと、すごく楽しそう」


二人のあいだに流れた沈黙は、もう不安や戸惑いのためのものではなかった。心が通じ合う、静かであたたかな沈黙だった。


週末の午後。天気は快晴。修一と遥は、郊外にある小さな植物園を訪れていた。


「すごい……こんなに静かで、緑が多い場所、久しぶりかも」


遥は木漏れ日の中で目を細め、そよ風に揺れる草花を見つめていた。彼女の横顔は、春の日よりも穏やかで、どこか力強ささえ感じさせた。


「こういう場所、好きなんですか?」


「うん。なんか、心が休まるっていうか……自分がちゃんと“今ここにいる”って思える感じ」


修一はその言葉を聞きながら、静かに頷いた。


「遥さん、ほんとに変わりましたね。初めて会ったときとは、別人みたいです」


「そう……かもね。前は、自分が何にもできないって思ってた。誰かの助けがなきゃ生きていけない、って。でも今は……」


遥はベンチに腰を下ろし、空を見上げた。


「今は、助けてもらいながらでも、自分の足で立てる気がする。少しずつだけど、ちゃんと前に進めてるって思える」


「……素敵ですね。その感覚、大事にしてください」


遥は笑って、それからふと、何かを思い出したように言った。


「……あのね、もう少し元気になったら、いつか、当事者同士で支え合える場所を作りたいって思ってるの」


「支え合える場所?」


「うん。カフェでもいいし、サロンでもいい。“普通”じゃない自分を責めずにすむ場所。“がんばらなくていいよ”って言える空間」


修一は、驚いたように彼女を見つめた。


「……それ、すごく素晴らしいと思います」


「できるかどうかは、まだ分かんないけど……そういう場所があれば、昔の私みたいな人も、きっと少しは楽になれると思うから」


遥の目は、真っ直ぐに前を見ていた。そこにはもう、かつての怯えた少女の影はなかった。


「……もし、本当にその場所を作るって決めたら、僕にも手伝わせてくれますか?」


「えっ……」


「ケアマネージャーとしてじゃなくて、一人の人間として。あなたのそばで、一緒にやっていきたいと思っています」


遥は目を丸くしたあと、少しうつむいて、小さく笑った。


「……ずるいな、そういうの。泣いちゃいそう」


「泣いてもいいですよ。泣くのは悪いことじゃないですから」


「うん、ありがとう……」


遥は顔を上げ、修一をまっすぐに見つめた。


「じゃあ、これからも一緒に……歩いていってくれますか?」


「もちろんです」


その日、植物園の帰り道。夕暮れの光の中を、二人はゆっくりと並んで歩いた。言葉は少なかったが、互いの心は確かに寄り添っていた。


──もう、ひとりじゃない。


その実感が、遥の胸に、あたたかく灯っていた。




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