ある春の日、彼は新たな利用者の自宅を訪れた。
玄関先で出迎えた遥は、長い髪を後ろで一つにまとめ、部屋着のままこちらを見つめていた。
「……ども」
それが最初の言葉だった。
徳田は軽く会釈し、訪問記録のファイルを手に持ったまま靴を脱いだ。
「失礼します。今日は簡単にお話をうかがいに来ました」
「……話すこと、あんまりないけど」
遥は目を合わせようとせず、ソファに腰を下ろした。リビングは整ってはいたが、どこか空気が淀んでいるようにも感じた。カーテンが少しだけ開いて、春の光が床に斜めの影を落としていた。
徳田は距離を取りつつ、向かいの椅子に腰を下ろす。
「無理に話さなくて大丈夫ですよ。僕はケアマネージャーの徳田といいます。これから関わらせてもらうことになりますので、よろしくお願いします」
「……よろしく」
その日は、病歴や生活のリズムについて、必要最低限のことだけを聞いて終わった。遥は表情をあまり変えず、どこか壁を作るような受け答えをしていたが、それが無理もないことだと徳田は理解していた。
最初の訪問から数週間が経ち、徳田は定期的に遥のもとを訪れるようになった。彼は余計な詮索はせず、ただ淡々と話を聞くことに徹していた。
ある日のこと。春の終わりを告げるように、少し汗ばむ陽気の日だった。
「……徳田さんって、いつも落ち着いてますよね」
遥がふと口にした。
「そうですか? 自分ではあまりそう思っていませんけど」
「なんか、無理にこっちのこと引き出そうとしないし……安心する」
彼女の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「遥さんのペースでいいと思っていますよ。無理しないことが一番ですから」
遥は少し目を伏せて、それから静かにうなずいた。
「……最近、朝起きるのが前よりちょっとだけ楽になりました」
「それはすごくいい傾向ですね。何かきっかけがあったんですか?」
「うーん……たぶん、誰かにちゃんと話を聞いてもらえるって、思えたからかも」
徳田は、ふと目を見開いて、それから小さく微笑んだ。
「それは、光栄です」
遥も、少しだけ笑った。小さな、けれど確かな笑顔だった。
次の訪問は雨の日だった。外は静かにしとしとと降り、街の喧騒もどこか遠くに感じられた。
「雨、嫌いなんですよね」
遥は、窓の外を見つめながらぽつりとつぶやいた。
「そうなんですね。低気圧のせいで、体調も崩れがちになりますしね」
「それもあるけど……思い出すから、いろいろ」
徳田は少しだけ目線を下げて、彼女の言葉の続きを待った。急かさず、ただそこにいる、という空気を作る。それが、彼のやり方だった。
「大学の頃に、初めて本格的に倒れたんです。身体が鉛のように重くて、自分でも寝てるのか泣いてるのかもよく分からなくて……」
遥の声は震えてはいなかった。ただ、どこか自分を遠くから見て話しているような、そんな響きだった。
「そのとき、親にはすごく怒られて……“甘えるな”とか、“根性が足りない”とか、そんなのばっかりで」
徳田は静かに頷いた。遥はそれを見て、少し肩の力を抜いたように見えた。
「……それ以来、人と話すのがこわくなって。こうしてちゃんと話せるようになったの、たぶん、初めてかも」
「ありがとうございます、そんなふうに思ってもらえて」
彼はまっすぐに彼女を見た。
「僕もね、人に話すのは得意じゃないんです」
「え?」
「仕事だから話してるけど、もともとは無口で、何を考えてるか分かりにくいってよく言われてました」
「今でもそう思うけど」
遥は思わずくすっと笑った。そこに、少しだけ春の名残のようなあたたかさが宿った。
「でも……ちゃんと届いてます。徳田さんの言葉も、気持ちも」
季節は巡り、夏が始まろうとしていた。訪問のたびに、遥の表情は少しずつ明るさを増していた。
ある日、彼女は冷たい麦茶を出してくれた。
「今日は少し、話してみたいことがあるんです」
「はい。なんでしょう?」
「……今の自分で、どこまで社会と関われるのか、まだよく分からない。でも、ちょっとだけ、働いてみたいって思うようになりました」
「それは大きな一歩ですね」
「きっと、徳田さんがいてくれたからです」
その言葉に、徳田は少しだけ目を伏せた。
「僕は……ただ、そばにいただけです」
「それが、一番難しいことなんですよ」
遥はまっすぐに彼を見た。
夏が終わりに差しかかり、蝉の声もどこか遠ざかって聞こえるようになった頃。遥は週に二回、近所のパン屋でレジ打ちのアルバイトを始めていた。
「今日は、お客さんに“ありがとう”って言ってもらえました」
訪問の日、遥はそう言って、ふふっと笑った。
「それはうれしいですね」
「なんか、ほんとに、ほんの少しだけど……自分が、誰かの役に立ってるのかなって」
修一は、その笑顔に見とれていたことに気づき、慌てて視線を逸らした。
「……徳田さんって、休日とか、どうしてるんですか?」
遥の問いに、修一は少し戸惑ったように笑った。
「……あんまり出かけたりしないです。家で映画見たり、散歩したり、それくらいですね」
「えー、なんか意外。もっとアクティブな感じかと」
「よく言われます。でも、たぶん、あまり人付き合いが得意じゃないからかも」
遥はその言葉に、少し黙ってから言った。
「……それって、昔から?」
修一は一瞬ためらったが、少しずつ言葉を紡いだ。
「……弟が、昔事故で亡くなって。それがきっかけで、家族もばらばらになって……それから、誰かと深く関わるのが怖くなったんです」
遥は、そっと口をつぐんだ。
「……つらかったですね」
「もう、10年以上も前のことです。でも、あのとき、“ちゃんと誰かがそばにいてくれたら”って、今でも時々思います」
「……わたしも、そう思ってた。病気のこと、理解してくれる人がいたら、きっともっと違ったんじゃないかって」
修一は、静かに頷いた。
「……だから、今、遥さんのそばにいることは、僕にとっても意味のあることなんです」
遥は、目を見開いたまま、その言葉を受け止めた。
「……じゃあ、私だけじゃなくて、徳田さんにとっても、大事な時間なんだ」
「ええ、そうです」
そう答えた修一の声は、どこまでも優しかった。
夏の終わり、遥はパン屋の帰り道に、小さなひまわりを一輪買った。次の訪問の日、テーブルの上にそれが飾られていた。
「ひまわり、好きなんですか?」
「うん。なんか、元気そうでしょ。太陽のほう向いて、まっすぐ伸びてるの、いいなって」
修一はその言葉にうなずきながら、ふと尋ねた。
「……来週の休み、もしよかったら、一緒にどこか行きませんか? 散歩でも、どこか景色のいいところとか」
遥は一瞬驚いたようだったが、すぐに頬を赤らめて、小さく微笑んだ。
「……行きたいです。きっと、すごく楽しそう」
二人のあいだに流れた沈黙は、もう不安や戸惑いのためのものではなかった。心が通じ合う、静かであたたかな沈黙だった。
週末の午後。天気は快晴。修一と遥は、郊外にある小さな植物園を訪れていた。
「すごい……こんなに静かで、緑が多い場所、久しぶりかも」
遥は木漏れ日の中で目を細め、そよ風に揺れる草花を見つめていた。彼女の横顔は、春の日よりも穏やかで、どこか力強ささえ感じさせた。
「こういう場所、好きなんですか?」
「うん。なんか、心が休まるっていうか……自分がちゃんと“今ここにいる”って思える感じ」
修一はその言葉を聞きながら、静かに頷いた。
「遥さん、ほんとに変わりましたね。初めて会ったときとは、別人みたいです」
「そう……かもね。前は、自分が何にもできないって思ってた。誰かの助けがなきゃ生きていけない、って。でも今は……」
遥はベンチに腰を下ろし、空を見上げた。
「今は、助けてもらいながらでも、自分の足で立てる気がする。少しずつだけど、ちゃんと前に進めてるって思える」
「……素敵ですね。その感覚、大事にしてください」
遥は笑って、それからふと、何かを思い出したように言った。
「……あのね、もう少し元気になったら、いつか、当事者同士で支え合える場所を作りたいって思ってるの」
「支え合える場所?」
「うん。カフェでもいいし、サロンでもいい。“普通”じゃない自分を責めずにすむ場所。“がんばらなくていいよ”って言える空間」
修一は、驚いたように彼女を見つめた。
「……それ、すごく素晴らしいと思います」
「できるかどうかは、まだ分かんないけど……そういう場所があれば、昔の私みたいな人も、きっと少しは楽になれると思うから」
遥の目は、真っ直ぐに前を見ていた。そこにはもう、かつての怯えた少女の影はなかった。
「……もし、本当にその場所を作るって決めたら、僕にも手伝わせてくれますか?」
「えっ……」
「ケアマネージャーとしてじゃなくて、一人の人間として。あなたのそばで、一緒にやっていきたいと思っています」
遥は目を丸くしたあと、少しうつむいて、小さく笑った。
「……ずるいな、そういうの。泣いちゃいそう」
「泣いてもいいですよ。泣くのは悪いことじゃないですから」
「うん、ありがとう……」
遥は顔を上げ、修一をまっすぐに見つめた。
「じゃあ、これからも一緒に……歩いていってくれますか?」
「もちろんです」
その日、植物園の帰り道。夕暮れの光の中を、二人はゆっくりと並んで歩いた。言葉は少なかったが、互いの心は確かに寄り添っていた。
──もう、ひとりじゃない。
その実感が、遥の胸に、あたたかく灯っていた。