「……あなたは、誰? 私、どうしてここに……?」
その声を聞いた瞬間、心臓が止まるかと思った。
病室でベッドに横たわっていた
俺、
「彩花……俺だよ、祐大だ。君の――」
「知らない。聞いたことない名前……」
白い病室の中、壁掛け時計の針の音がやけに大きく響く。
俺はすぐにナースコールを押し、医師と看護師が駆けつけた。検査の結果、脳に物理的な異常は見られなかったが、診断は「
原因は事故のショックによるものらしい。
医師の問診により、彼女は約2年前から現在までの記憶を完全に失っていることが分かった。
ちょうど、俺たちが付き合い始めた時期と重なる。
恋人だったことも、笑い合った日々も、涙を拭いた夜も──
すべて、彼女の中から消えてしまった。
退院後、彩花は実家で療養することになった。
俺は彼女の家族の許可を得て、少しずつ、彼女のそばに通い始めた。
「また来たの?祐大さんって、しつこいですね」
「ごめん、でも……彩花に、もう一度恋してほしくてさ」
最初は警戒していた彼女も、次第に心を開きはじめた。
一緒に昔行ったカフェに行き、同じメニューを頼む。
彼女の好きだった映画を一緒に見て、笑い合う。
彼女が覚えていないことを、俺は丁寧に、焦らずに伝えた。
彼女が過去を思い出すことよりも、今の彼女と新しい記憶を作ることを大事にしたかった。
ある日、二人で見晴らしの良い公園を歩いていたときのこと。
「ねえ、祐大さん」
「ん?」
「なんかね、最近……あなたといると、胸があったかくなるの。安心するっていうか、懐かしいっていうか……変ですよね」
その言葉を聞いて、胸が詰まりそうになった。
「全然、変なんかじゃないよ。嬉しいよ、彩花」
夕日が差し込む中、彼女は少しだけはにかんで微笑んだ。
それは、俺が何度も見てきた笑顔だった。
記憶はなくしても、彼女の心には、ちゃんと残っていたのかもしれない。俺との日々のかけらが。
そして今──
季節は春。桜の花が咲き誇る公園で、俺は彼女の手を握った。
「彩花。記憶が戻っても戻らなくても、俺は君と生きていきたい。……もう一度、付き合ってください」
彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……はい。私も、あなたと一緒にいたいと思ってました。記憶がなくても、心が覚えてるんです。あなたのこと」
その瞬間、世界が光に包まれたような気がした。
俺たちはもう一度、手を取り合って歩き出した。
過去ではなく、未来へと向かって。
新しく付き合い始めた日々は、ぎこちなくもどこか懐かしさに包まれていた。
ある雨の日、彼女がふと、口ずさんだ。
「……祐大さん、この曲、どこかで……」
それは、二人が初めてデートしたとき、店で流れていたBGMだった。
彩花はハッとしたように自分の唇を押さえた。
「思い出した、ってこと……?」
「いえ……でも、音楽を聞いた瞬間に、心の奥がざわざわして。懐かしくて、泣きたくなるような気持ちになって……」
俺は無理に追い詰めることなく、ただ微笑んだ。
「きっとそれは、大事な思い出が、どこかで眠ってる証拠だよ。ゆっくりでいいさ、焦らないで」
それからも、ふとした風景、言葉、匂い……
様々な断片が彼女の記憶の扉をノックし続けた。
季節は夏。真っ青な海が広がる、あの思い出の場所へ二人で出かけた。
「ここ……なんだか、来たことがある気がする……」
白い砂浜、光る波、そして波打ち際で手をつないだ感触。
彼女の目に、涙がにじんだ。
「祐大さん、私……今、あなたとここにいた夢を見たの。夢じゃなくて……思い出だったのかも」
彼女は自分の胸に手を当て、そっとつぶやいた。
「ここで、あなたが私に告白してくれた……。『どんなに辛いことがあっても、ずっと一緒にいたい』って」
俺の心臓がドクンと鳴った。
彼女の中に、確かに記憶の光が戻り始めている──。
数週間後。彼女の記憶はまだ完全ではないけれど、大切なものほど先に戻ってきていた。
笑い合った瞬間や、喧嘩して泣いた夜、誕生日に贈った小さな指輪──。
そして俺は、決意した。
再び、あの公園へ。桜の季節とは違い、秋の風が優しく吹いていた。
「彩花。……君が全部を思い出してくれても、くれなくても、どちらでもいい。俺は、これからの君と一緒に、未来を作っていきたいんだ」
ポケットから、小さな箱を取り出す。
開けると、中にはシンプルなダイヤの指輪。
「神崎彩花さん。どうか、俺と結婚してください」
彼女は息を呑み、一瞬、言葉を失ったあと──静かに微笑んだ。
「……ずっと、待ってた気がします。この言葉を。思い出せない時間もあったけど……あなたがそばにいてくれて、いつも心が安心できた。だから──」
彼女は涙を浮かべながら、俺の手を取った。
「はい。喜んで」
その瞬間、風がやさしく吹き抜け、色づいた葉が舞った。
記憶を越えて、心が繋がった確かな証。
俺たちは強く抱きしめ合った。
結婚式の日。白いドレスに身を包んだ彩花が、俺の手を握り、そっと囁いた。
「全部は思い出せないかもしれない。でも、あなたとこれから作る日々を、全部大事に覚えていくね」
俺は笑い、彼女の額にキスを落とした。
「それで十分だよ。君が隣にいてくれるだけで」
二人の人生は、今日からまた、新しいページを刻んでいく。