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第28話  佐藤さんと荒井くんの場合

雨が激しく降る金曜日の夕方、東京駅のコンコースは傘を持たない人々で溢れていた。その中に、ずぶ濡れになりながら困り果てている一人の女性がいた。


「はあ...今日に限って傘を忘れるなんて」


彼女の名前は佐藤愛梨(25歳)。出版社で働く編集者で、いつもは几帳面だが、この日は朝の慌ただしさで傘を忘れてしまっていた。


その時、背後から優しい声が聞こえた。


「あの、もしよろしければ...」


振り返ると、黒い傘を差し出してくれる男性がいた。荒井健太(27歳)、IT企業でシステムエンジニアをしている彼は、偶然美咲の困った様子を見かけていた。


「え、でも...」


「僕は車で来てるので大丈夫です。どうぞ」


健太の優しい笑顔に、愛梨の心は温かくなった。


「ありがとうございます。でも、この傘はどうやってお返しすれば...」


「今度、お時間のある時にでも」


健太は名刺を差し出した。愛梨も慌てて自分の名刺を取り出す。


「佐藤愛梨と申します。本当にありがとうございました」




一週間後、愛梨は健太に連絡を取り、傘を返すために新宿のカフェで待ち合わせをした。


「お忙しい中、ありがとうございます」


愛梨が傘を差し出すと、健太は首を振った。


「せっかくなので、少しお話しませんか?コーヒーでも」


「でも、お時間を取らせてしまって...」


「大丈夫です。実は、あの日からずっと気になっていたんです」


健太の率直な言葉に、愛梨の頬がほんのり赤くなった。


カフェの窓際の席で、二人は自然と会話を始めた。


「お仕事は編集者をされているんですね」


「はい。主に文芸書を担当しています。健太さんはシステムエンジニアでしたよね」


「ええ。最近は人工知能の開発に関わっているんです」


「すごいですね!私には全く分からない世界です」


「僕も本はよく読むんですよ。美咲さんが手がけた本も読んでいるかもしれませんね」


会話は途切れることなく続き、気がつけば3時間が経っていた。


「あ、もうこんな時間...」


「楽しい時間でした。また今度、お会いできませんか?」


健太の真剣な眼差しに、愛梨はゆっくりと頷いた。



それから二人は頻繁に会うようになった。美術館、映画館、公園...様々な場所でデートを重ねた。


ある春の日、桜が満開の上野公園を歩いていた時、健太が立ち止まった。


「愛梨さん、僕と付き合ってください」


桜の花びらが舞い散る中、健太の告白を聞いた愛梨の目には涙が浮かんでいた。


「私も...健太さんのことが好きです」


「本当に?」


「はい」


二人は桜の木の下で、初めて手を繋いだ。




交際を始めて1年が経った頃、愛梨の仕事が忙しくなり、なかなか会えない日が続いた。健太も新しいプロジェクトで残業が続いていた。


「最近、全然会えないね...」


電話越しの健太の声は少し寂しそうだった。


「ごめんなさい。今度の企画が大変で...」


「僕も忙しくて、美咲の支えになれなくて申し訳ない」


お互いを思いやるからこそ、すれ違いが生まれていた。


そんなある日、愛梨が体調を崩して会社を早退した。一人でアパートにいると、インターホンが鳴った。


「美咲?大丈夫?」


ドアの向こうには、心配そうな健太の顔があった。


「どうして...?」


「会社に電話したら、体調が悪いって聞いて。お粥作ったよ」


健太は温かいお粥と薬を持ってきてくれていた。


「ありがとう...」


「無理しちゃダメだよ。僕がついてるから」


健太の優しさに触れて、美咲は改めて彼への愛情を実感した。




交際3年目のクリスマスイブ、健太は美咲を初めて出会った東京駅に誘った。


「なんで東京駅?」


「記念の場所だから」


イルミネーションが輝く駅のコンコースで、健太が突然膝をついた。


「愛梨、僕と結婚してください」


小さな箱から取り出されたのは、美しいダイヤモンドの指輪だった。


「3年前、雨の日にここで君に出会えて、僕の人生が変わりました。君がいない人生なんて考えられない」


美咲の目から涙がこぼれ落ちた。


「健太...はい、喜んで」


周りの人々から拍手が起こる中、二人は固く抱き合った。




翌年の春、桜が咲く頃に結婚式を挙げることになった。


式場は、二人が初めて付き合った上野公園を一望できるホテルを選んだ。


愛梨は純白のウェディングドレスに身を包み、健太はタキシード姿で祭壇の前に立った。


「新郎・荒井健太さん、新婦・佐藤美咲さんを妻として愛し、病める時も健やかなる時も、共に歩んでいくことを誓いますか?」


「はい、誓います」


「新婦・佐藤愛梨さん、新郎・荒井健太さんを夫として愛し、どんな時も支え合うことを誓いますか?」


「はい、誓います」


指輪の交換の後、二人は誓いのキスを交わした。


披露宴で健太がスピーチをした。


「雨の日に傘を貸してくれた優しい人が、こんなに素敵な女性だったなんて、運命を感じました。美咲、これからもずっと一緒に歩んでいこう」


愛梨も涙ながらに答えた。


「健太さんに出会えて、私の人生に光が差しました。これからは二人で幸せな家庭を築いていきましょう」




結婚から3年後、二人には可愛い女の子が生まれた。名前は桜花(おうか)。二人が初めて愛を確かめ合った桜の木のように、美しく成長してほしいという願いを込めて名づけた。


「パパ、ママ、桜きれいね」


3歳になった桜花と一緒に、家族三人で上野公園を歩いている。


「そうだね、桜花ちゃん。ママとパパが初めて手を繋いだ場所なんだよ」


健太が優しく娘に説明する。


「素敵なお話ね」


愛梨が微笑みながら健太の腕に手を回した。


「あの雨の日から、僕たちの物語が始まったんだ」


「これからも続いていくのね、私たちの物語」


桜の花びらが舞い散る中、三人は幸せそうに歩いていく。時には雨の日もあるけれど、お互いがいれば大丈夫。そんな確信を胸に、荒井家の新しい章が始まっていた。




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