社交界の中で最上の淑女とされ、宝石の花と呼ばれているキースの養母、ミュリエーラ・レジエンダ公爵夫人に呼ばれたクラリスは、自分でもガチガチだと思うほど緊張していた。
(ど、ど、どうしよう……! 心臓がバクバクするし、体が震えてしまう……)
礼儀に則り指定された日に訪問したい旨を書いた手紙を送って約束を取り付け、マダム・ローズリー監修の元、貴族令嬢の昼間の訪問着としてふさわしいドレスを身に着けた。
ここまでは完璧だった。
しかし一緒についてきてくれるはずのキースは、突然の王宮からの呼び出しに出仕を余儀なくされてしまったのだ。
『必ず顔を出すから』
キースはそう言ってくれたが、王宮から直に呼び出される仕事だ。クラリスは静かに首を振って『気になさらないでください』と言って送り出した。
クラリスはキースの邪魔をしたいわけではなく、むしろ足手まといにならないよう淑女教育を受けて社交を学びたいと思ったのだ。
だからこそこのチャンスをしっかりと受け止めて、きちんと学ばせてもらおうと気合いを入れてレジエンダ公爵家へとやって来た。
しかし想像の何十倍も大きくて豪奢な邸に調度品の数々。使用人の多さに目がくらみそうになった。
(キース様はこんなにも凄いお屋敷で育ってきたのね……)
サンドラのリバリュー子爵家もクラリスのルバック伯爵家から見れば豪華で凄いと感動していたが、レジエンダ公爵家はさらにその遙か上をいきすぎていて、自分が何をしにきたのかも忘れてしまいそうだ。
それを我に返らせてくれたのが、一枚の肖像画。
とんでもなく高い天井に続く壁に並べられたレジエンダ公爵家の家族の肖像画で、美しい金髪に笑顔という家族の中で一人だけ銀髪の少年の姿があった。
沈んだ青い瞳は、どこか居づらそうで身の置き所のなさそうに伏せ目がちに描かれている。
クラリスは立ち上がり、思わず声を出した。
「これは、キース様の子どもの頃の肖像画だわ……!」
「その通りよ。よく描かれているでしょう?」
突然のことに驚いた。いつの間にか応接室へ入ってきていたのか、にこにこと屈託のない笑顔で声をかけてきたのはレジエンダ公爵夫人であるミュリエーラ。
約束をしていたのだから当然なのだが、緊張もあいまって動揺してしまった。
「……っ! レジエンダ公爵夫人、あ、初めてお目にかかります。私は、ルバック伯爵家のクラリスと申します」
「ええ、はじめまして、クラリス。でも堅苦しい挨拶は抜きにして、ね。わたくしのことはミュリエーラと呼んでちょうだい。そうそう、この絵のことなのだけれども、本当に特徴が出ていると思わない?」
「え、あ……は、はい。ええと、そうですね?」
淑女教育を学びに来たはずなのに、堅苦しい挨拶は抜きと言われても。
クラリスは首を捻りながらも、ついミュリエーラの言葉に頷いてしまった。
「ほらここ。この絵なんて、完全にそっぽを向いているでしょう。この頃のキースはね、どうにかしてわたくしたちに嫌われて追い出されようとしてばかりだったのよ」
(え? ええと、それはいったいどういうことなの? 嫌われるようなことをして? でもそれをレジエンダ公爵夫人はちゃんと知っていて、ということなのかしら?)
笑顔のままのミュリエーラに悪い感じはしない。それどころかとても温かみのある瞳で子どもの頃のキースの姿を眺めている。
「クラリスはキースが家の養子になった詳しい話は聞いているかしら?」
「あの、少しだけ。詳しくは、まだ……」
半獣人のキースが公爵家の養子になっていることは、サンドラの誕生パーティーでの騒動で知ったことだが、あれからいろいろとありすぎてキースから詳しく話は聞いていなかった。
初めて知った時はその身分差からも距離を置こうとまで思ったキースの立場だったが、好きだと自覚してしまったこととキースからの愛情表現がほとんど獣人のものだったこと。そして騎士団ですごしているうちは貴族としての生活から遠ざかっていたせいで、ついつい気にすることを忘れてしまっていた。
「あら? 本当に?」
「は、はい……」
「ダメねえ、あの子ったら。本当に大事にしたいものは真綿でくるむようにしたがる癖をどうにかしないと、ね」
そう言うと、ミュリエーラはキースがレジエンダ公爵家の養子になった経緯を教えてくれた。
前公爵の次男だったキースの父親は植物学の研究者だった。膨大な魔力がありながらも争い事が嫌いな彼は、フィールドワークと称して山を駆け巡って植物採集に明け暮れていたそうだ。
そんな生活をしているうちに、ある時足を滑らせ山から落ちたところをキースの母親である狼獣人と恋に落ちてキースを身ごもった。
貴族社会に全く未練のなかったキースの父親は、狼獣人を娶りそのまま彼らの集落ですごすことになった。
レジエンダ公爵家としても、長男は立派に育ち家門も継げるめどが立っているうえ、そこに二人の息子も生まれた。
まあ、変わり者の次男のことだ。生きてくれていればそれでいい。と、考えて好きにさせていたのだという。
しかし、キースが七歳になった時に状況が一変してしまった。キースの家族たちが住む集落が山火事に巻き込まれて甚大な被害を受けてしまった。
キースの両親も、母親の獣人親族も全て亡くなってしまったため、唯一の親族であるレジエンダ公爵家に引き取られたのだと。
「では、キース様はレジエンダ公爵家の血をちゃんと引いていらっしゃるのですね」
「そうなのよ。それなのに、どこかの頭の悪い息子さんが一方的にキースのことを獣人だと追い込んでね。カッとしたキースがちょっと脅しただけでひっくり返ってしまって大事になったからって、あの子。わたくしたちに迷惑をかけたから出ていくつもりで嫌われようとした結果が、ほら。あのそっぽを向いた態度なのよ」
ミュリエーラと同じようにクラリスもキースの少年期の絵画を見上げる。確かに顔はそっぽを向いているが、視線はちゃんとミュリエーラたち家族にある。
冷たそうに見えるけれども、実はそうではない。とてもキースらしい姿。
——本当に、バカみたいに真っ直ぐで可愛らしい子でしょう?
ミュリエーラの愛ある言葉に、クラリスは深く、深く頷いた。
「キース様は、本当に真っ直ぐで、そしてお優しい方です」
クラリスがそう答えると、ミュリエーラは目元の皺をいっそう深くして笑った。
「だからね、キースがこうしてわたくしたちを頼りにしてくれるだけで嬉しいの。クラリスがどちらのご令嬢だろうと関係ないわ」
「レジエンダ公爵夫人……」
「ふふ。ミュリエーラと呼んでちょうだいと言ったでしょう。わたくし、お義母様と呼ばれるよりも名前を呼んでもらえる方が好きなのよ」
「そ、そんな……」
さすがにそれは気が早すぎる。名前呼びはともかく、お義母様と呼ぶことは特に。
顔を真っ赤にしたクラリスの手を取り、ミュリエーラはもう一度、しかし今度はもっといたずらっぽい笑顔を見せた。
「でも、それとこれとはクラリスの中では別なのでしょう。だから、クラリスが自分自身で満足できるまで、わたくし頑張って淑女教育をお手伝いさせていただくわね。覚悟なさいな、クラリス」
「う、あ……はい。頑張ります」