祖母のサンドラと街中で出会ってから、クラリスはどうにもキースの様子がおかしい気がしている。
〝狼〟の護衛がクラリスの周りにまとわりついているのは当然のことながら、今まで以上に仕事の隙を見てはクラリスの元へ顔を出しに来る。
それがあまりにも頻繁なため、さすがにクラリスも心配になるくらいだ。
「キース様、お仕事の方は大丈夫ですか?」
「はい、クラリス」
クラリスの問いに、にっこりと笑って答えるキース。口元から真っ白な牙が控えめにちらりと見え隠れする。
クラリスには見慣れたキースの笑顔だが、相変わらず騎士団員たちにとっては超がつくほどレアなのだという。今日も診察室で診ていた若手団員がキースの表情にぎょっとした顔を見せて逃げるように帰っていってしまった。
「でも、今日はこれで三度目ですが……本当に?」
いくらなんでも、と思い尋ねてみたのだが途端、くんっと下を向いて上目遣いでクラリスを見つめるキース。
「……お邪魔でしょうか?」
まるで叱られた犬のような垂れた耳が見えた気がした。
(う、う……。邪魔なんかじゃない。ないけれど……もうっ)
キースが騎士団中隊長として忙しいことがわかっているからこそ尋ねているのだ。
クラリスだってキースと一緒にいられることは嬉しいが、恋人であるからこそ邪魔になることだけはしたくない。
「では、ダイム様にうかがってもよろしいですね」
気を取り直すように、コホンと一つ咳払いをしてから〝ベル〟に手を当て、詠唱する。クラリスの〝子リス〟がポンッと姿を現したのを見て、キースはとうとう観念した。
「すみません。抜け出してきたことを認めます」
そう言うとキースはクラリスの手のひらの上の〝子リス〟をひょいっと手に取り頭を指で軽く撫でる。
「あっ」
「だから、この可愛い〝子リス〟をダイムに送るだなんて言わないでください」
「キース様、そういうことではありませんよ」
クラリスが言おうとすることを全てさらりと躱そうとするキースの指で、気持ちよさそうに目を細める〝子リス〟に、クラリスはなんとなくもやっとする。
「もう! 戻っていらっしゃい」
「え、クラリス?」
「ガルゥウ……」
クラリスがツンッとした口調で〝ベル〟を片付けてしまうと、キースと共に護衛の〝狼〟からも残念がる声が上がった。
(本当に、〝ベル〟は人に似るんだから)
そんな諺にもならないような言葉を頭の中で呟きながらキースをじっと見つめた。
その圧に負けたキースは両手を挙げて、今度こそ降参といったポーズを取る。
「でも用事があるのは本当です。クラリスの家庭教師を頼んでいた方から連絡が届きました。喜んで教えてくださるとのことです」
「まあ! キース様、それを早く言ってください!」
クラリスはついさっきまでのモヤモヤした気持ちなど忘れてキースの言葉に飛びついた。
「それで、どなたが引き受けてくださったのでしょうか?」
ソファの隣に座り姿勢を正しキースの言葉の続きを待つ。
「ああ、それが、ですね……」
キラキラと瞳を輝かせるクラリス。それとは対照的に、なんとも言いにくそうな顔で、キースは重たい口を開いた。
「宝石の花、という比喩を覚えておいでですか?」
「ええ、社交界でも目標とされる最高の淑女へ送られる賛美のことですよね。あの後で調べたのですが、中でも世代の象徴とされる方には、そのイメージとされる花と宝石で呼ばれるネームドという方々がいらっしゃるとか」
「その、ようですね」
「オルキア・ダイヤ、ダリエ・ガーネット、それから——」
一つ一つ宝石の花の名をあげていく。
全てが美しく華やか。調べれば調べるほど、夢のような世界を垣間見ているようでクラリスはそれだけでうっとりとした。
「ロゼ・アレキサンドライト」
「そうです! 歴代最上の淑女と名高い、宝石の花の君だそうです。やはりキース様もご存じでしたか」
「ええ、まあ」
「私が見せてもらえたのは姿絵と宝石の花の名が書かれたものだけでしたので、どちらの方々かは存じませんが、あれほどの美しさと気品があるからこそ宝石の花として呼ばれるのだと感動してしまいました」
それほど高貴な存在を見ていたからこその、サンドラのあの台詞だったのだと痛感もした。それを考えれば、いくら可憐な美しさを持つビアンカでも、王都の淑女基準ではまだまだ子どもでしかない。
クラリスも宝石の花とはいかないまでも、少しでもキースにふさわしい淑女になりたい。そう思わせられた。
「早速、ご挨拶をさせていただきたいと思いますが、どちらへ向かえば……キース様?」
「…………ト、です」
もごもごと口ごもるキースに向かい、クラリスはもう一度「キース様?」と名前を呼んだ。
すると、すうっと息を吸い込んで勢いのままに吐き出した。
「その、ロゼ・アレキサンドライトです。家庭教師ですが」
(………………え?)
「自分の養母——ミュリエーラ・レジエンダ公爵夫人が、あなたを手伝う、と」
「う、嘘ですよ、ね? ……え、ええええっ⁉」
「生憎と、なぜかやる気満々でして」
あまりの大物家庭教師の登場に、腰が抜けそうなほど驚いた。
いくらなんでもそれはない。
全く一から始めようという淑女教育の家庭教師が、王国歴代でも一と言われる宝石の花、至高のロゼ・アレキサンドライトとは。
しかもそれがキースの養母で公爵夫人。
クラリスは口をパクパクと動かすも言葉が出てこない。
「……本当に、止められなくて申し訳ありません、クラリス」
謝罪するキースに向かい、さすがにそれは……と思わないでもないクラリスだった。
***
『キース、あなたの子リスちゃんの家庭教師だけれども、わたくしが受けることにしましたから』
キースの実家、レジエンダ公爵夫人のミュリエーラから〝ベル〟が届いたのは、キースがクラリスの家庭教師を探すため、マダム・ローズリーへと口利きを頼んだその日の夜だった。
「は? ちょっと、いったい何を……」
『嫌だわ、ごまかさなくてもよろしくてよ。ちゃあんと裏は取れているのだからね。いつでもよろしいから連れていらっしゃいな』
ミュリエーラがこう言うということは完全に退路が断たれているということだ。キースがレジエンダ公爵家へと養子に入って以来、嫌というほどわからされてきた。
社交界での宝石の花の名は伊達ではない。
しかも歴代一を誇るロゼ・アレキサンドライトの名の力は、下手をすれば王妃をもしのぐ。無論ミュリエーラにその気はないが、彼女が本気でやるといえば社交界でできないことは何もないのだ。
「あの、クラリスにはいろいろと事情がありまして、魔法薬学以外は人よりも遅れています」
その人格も性質も、キースはクラリスが劣っているとは思っていないが、社交だけはさすがに別だ。だからこそ勉強したいというクラリスの意志を尊重しようと考えた。
『まあまあ、それは楽しみね! 伸びしろしかないじゃない』
(いやまあ、それはそうなのですけれど)
喜ぶミュリエーラに心の中で突っ込みを入れる。
『じゃあ、早速だけれども来週の中日に連れていらっしゃいね。待っているから。では、おやすみなさい。愛しているわ、キース』
それだけ言い切ると、ミュリエーラはさっさと〝ベル〟を切ってしまった。
(確かに最高の教師を、とクラリスと約束はしたものの……まいったな)
クラリスへなんと伝えるべきか、しばらくの間キースは悶々とした日々を過ごすこととなってしまったのだった。