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第54話 考える

 クラリス——あなたにふさわしい貴族の元へ嫁がせることを約束するわ。

 サンドラのその言葉に、真っ先に反応したのはクラリスではなくキースだった。

「リバリュー子爵夫人、今何とおっしゃいましたか? クラリスにふさわしい相手を見つけるなどという、おかしな言葉が聞こえましたが」

 銀灰の名にふさわしいほどの冷ややかでありながらも燃えるような苛立ちがその声に滲み出ている。隣に座るクラリスも思わず背筋が伸びるほどだった。

 けれどもさすがにサンドラも長く貴族社会にいただけのことはある。ちらりと一瞥すると当然のように答える。

「ええ、確かに言いましたわ、レジエンダ公爵子息」

 三度も公爵子息と呼ばれたキースは、ビキリと音が立ちそうなほどこめかみに力を入れながらも冷静さを取り戻そうとして静かに息を吐いた。

「別段おかしくはないでしょう。クラリスは伯爵家の令嬢とはいえ、田舎領地の持参金も期待できない娘ですわ。しかも社交に疎く、デビュー前の令嬢よりもレッスンが必要な。ねえ、クラリス」

「あ、はい。ええと、それは確かに……」

 サンドラの言うことは至極真っ当なことばかりだ。貴族令嬢というのであればクラリスは及第点にも届かない、正に劣等生。普通ならばまともな結婚相手は見つからない。

 しかし、キースはそのサンドラの言葉に真っ向から反論する。

「クラリスの価値はそんなところにありません。彼女の真面目さ、勤勉さ。そして優しさは他の誰よりも尊く美しい」

 キースのとんでもない称賛にクラリスは、顔を赤くするというよりもむしろ青くなってしまう。

「キ、キース様。さすがにそれはちょっと……」

 大げさすぎると止めようとしたが、それよりも早くサンドラが笑った。

「ほほほ。レジエンダ公爵子息がクラリスを高く評価してくださるのはありがたいことです。

——が、貴族社会には貴族社会のルールと責務がございます。どれほど愛だの恋だのと騒いでいても、最終的には釣り合いが大事だということですわ」

「半獣人の養子貴族に、伯爵家の令嬢は分不相応とおっしゃりたいのでしょうか?」

「いいえ。没落寸前の伯爵令嬢には裕福な子爵家に嫁ぐことが幸せだということですわ。分不相応な公爵家ではなくて」

 サンドラは一瞬だけ遠くを見つめると、すぐにクラリスへと視線を戻した。

「クラリス、よく考えておいてちょうだい。貴族令嬢としての責務を果たしたいのであれば、私の手を取るように、ね。待っているわ」

 サンドラはテーブルの上のベルを鳴らした。すかさず扉からサンドラの侍女が入ってきて手を貸す。

「あの、お祖母様!」

「この店は私のものだから、お代は必要ないわ。あなたたちはゆっくりとしていきなさい。それではお先に失礼するわ」

 それだけ言うとサンドラはサッと立ち上がり個室を出ていってしまった。後に残ったクラリスとキースはお互い顔を見合わせている。

「このお店がお祖母様のもの……?」

「リバリュー子爵は実業家としても成功していますから、なんら不思議はありません」

「そうなんですか?」

「はい。前子爵夫人の誕生パーティーへも代理とはいえ侯爵家から招待客が来ていたでしょう。家格はともかく、リバリュー子爵夫人がおっしゃるよりもずっと、リバリュー子爵家の影響力は大きいです」

 親戚だというのに全く知らなかった。クラリスは呆気に取られながらキースの話すことを聞いている。

「……私、本当に何も知らないのですね。お祖母様のことも、社交のことについても」

 クラリスは十八歳になる今まで、魔法薬学のことしか勉強をしてこなかった自分が急に恥ずかしくなる。王都へ来てからもずっと、自分の得意分野のことしかせずに、騎士団本部でお世話になっている状況も含めて。

 王都の騎士団へ来てからというもの、騎士団員や獣師団員たちに囲まれ、魔法薬やポーションを作りありがとうと感謝されて頼りにされる。それが嬉しくて、毎日を楽しく過ごしていた。

 しかしそれでは貴族としての責務は果たしてはいないことになる。それにサンドラの言うとおり、あくまでもクラリスの籍はルバック伯爵家にある。

 この先ルバック伯爵がクラリスのことを思い出した時、クラリスはいったいどうすればいいのだろうか。

「私、このままでいいのかしら?」

 ぽそりとこぼした独り言をキースは素早く拾った。

「クラリス、まさかリバリュー子爵夫人の元へ行くと言うのではないでしょうね!」

 キースが勢いよくクラリスの肩を掴んだ。その拍子にテーブルがガタッと音を立てて茶器からお茶が零れてしまった。

「自分から、離れて……?」

 クラリスを見つめるキースの瞳の青が大きく揺れている。心配そうに、そしてどこか怯えているようなその瞳に見つめられていると、クラリスは心臓をぎゅっと掴まれているような気にさせられる。

「あのっ、キース様……。痛い、です」

「あっ、すみません。クラリス……」

 強く掴んでしまったと、慌ててクラリスの肩から手を離す。ただそれでもクラリスの顔からは決して視線を離そうとはしない。

 そんなキースのクラリスを請う気持ちがクラリスの胸の奥をさらに高鳴らせる。

「キース様、その……私はお祖母様の提案を受けようと思ったわけではないのです」

「そう、ですか」

 ようやく少しほっとしたような息を吐いて緊張が解けるキース。

「ただ、このままではダメなのかなと思って。お祖母様がおっしゃるとおり、私があまりにも無知で世間知らずですから」

「しかしそれは、クラリスのせいではないですから」

 勿論クラリスにもわかっている。

 幼少時にするべき淑女教育を受けさせてもらえなかったこと。そして冤罪を受けて送られることになるまで王都には一歩も足を踏み入れたことがなかったこと。

 全部クラリスのせいではないことを。

 けれども今はこうして王国の中心で不自由なく生活ができ、学ぼうと思えば何でも学べる環境にある。誰一人としてクラリスのやりたいと思うことを止める人はいない。

「はい。でもだからといって、今からでもできることをしなくてもいいという理由にはならないですよね」

「それは……」

「ですから、少しずつでもやるべきだったこと、そしてしたいと思っていたことを教えてもらえたらと思っています。ただそれはお祖母様ではなく、キース様やキース様のお知り合いで誰か紹介していただける方に。わがままなお願いをきいていただけますか?」

 クラリスは実の祖母であるサンドラではなく、キースを頼りにしている。

 それだけでキースの頬が緩む。

「勿論です。愛おしい恋人のお願いを断るだなんてありえません。最高の教師を探してきますね」

 キースの手がクラリスの頬を撫でる。見つめ合ったキースの瞳が弧を描く。

 大きく温かな手がゆっくりと首へと回ってきたところで、クラリスは慌ててキースの顔を両手で押さえた。

「ダメです。……ここでは、絶対にダメ」

 放っておけばそのまま首を甘噛みされる。それはもう、恋人同士になってからのこの短い間に何度もされてきたからわかる。

 いくら人前でないとはいえ、ここはサンドラが自分の店だと言った。自分の祖母の店でなんてと思うと恥ずかしくて仕方がない。

「お願い、ですよ」

「…………はい」

 ついさっき言ったばかりの言葉を反故にすることもできず、キースはクラリスの首筋に甘噛みしたい衝動を抑えつつ肩から手を離した。


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