昨夜、沖田は『ああ、剣を持ちたいなあ』と思いながら眠りについた。もう、自分の人生は残りわずかだ。ならば、少しくらい、剣を持ちたいと思った。最後に刀を持ったのはいつだったか……。鳥羽伏見の戦いでは、すでに戦線を離脱していたので、今年に入ってからは刀を持っていない計算になる。四月だ。
(なんだか、懐かしい夢まで見たな)と沖田は思った。新撰組の頓所の夢だった。去年の十月くらいの夢を見た。
新撰組の屯所は、西本願寺にあったが、新撰組の隊士達は稽古や出入りが激しすぎたので、ほとほと、西本願寺も嫌気がさしたらしい。そこで、西本願寺は巨費を投じて、大名屋敷のような豪勢な造りの屯所を作ってやった。西本願寺からはほど近い不動堂村だ。そこで、『幕臣』となった新撰組は暮らしていた。天狗になっても仕方がない。
天狗になりつつあった新撰組だが、それでも、毎日、稽古は欠かさなかった。稽古、となると沖田・近藤は上座から見ているだけ。胴着を着て実際に指導しているのは、土方だった。毎日毎日、荒稽古が繰り返され、足腰が立たなくなって地面に座り込むものも居たが、そんな者にこそ『まだまだァ!』と土方が容赦なく稽古を付ける。地面に突っ伏して動けなくなる者も出るほどだった。
沖田は平然とそんな様子を見ながら、別に、土方を特別厳しいとは思わなかった。むしろ、(土方さんは、優しすぎるね)と、土方の徹底指導を嘲笑う気持ちがあった。
土方の稽古を付ける理由は、隊士達が死なない為だ。戦場ならば、どんなに疲弊していても、無理矢理にでも体を動かさなければ、死ぬ。毎日毎日限界以上に打ち込ませるのは、そんな安直な理由だ。だから、沖田は、そんな土方の稽古に参加する気にもならない。
欠伸をかみ殺しながら稽古を見ていると、不意に視線を感じた気になった。視線の方に目を向けてみると、一匹の猫が、ちょこんと座っていた。稽古を見ているようだった。
稽古が終わるまで、じっと見つめていた。稽古が終わった後は、中々、凄惨な風景だ。地面に倒れ伏すもの、白目をむいている者も居る。吐いている者もいる。土方は、呼気を乱してはいるものの、涼やかなものだ。汗を拭いながら、近藤と沖田の前ではなく、少し離れたところに座った。胴着を外し、肩を回してから頭を振ると、汗が飛び散る。
井戸の周りには、まだ、隊士達が居るだろう。土方は、最後に水を使う。ゆっくり身支度を調えたいからだろう。その間、土方は、ぼんやりと、隊士達を見ている。近藤や沖田が話しかければ、受け答えはするが、自分から何かを話すようなことはない。
気がつくと、土方の隣に、あの猫が居た。土方の隣、というのは語弊があるかも知れない。土方からと猫の間には、距離がある。土方が手を伸ばしても、猫には届かないというような微妙な距離だ。猫も、土方と一緒で、ぼんやりと隊士達を見ていた。
やがて、倒れていた隊士達も介抱され、井戸の方には誰も居なくなる。誰も居なくなったのを見計らって、土方は井戸に向かう。顔や体を冷たい井戸水で清めて、身繕いをする。身繕いが終わると、そっと部屋に戻る。土方の部屋は、この新撰組の屯所の中でも、格別に良い場所だった。勿論、局長である近藤の部屋には劣るが、部屋からは梅の木も見える。次の冬には梅はあでやかな花を咲かせるに違いない。
幕臣となった新撰組の副長である土方は、外勤の他にも様々な内勤があった。新撰組が内外で遣り取りする文書関係は、殆ど、土方が目を通していたし、近藤が察知しないだろう、監察部からの報告などもある。薬を作ったり、俳句を捻ったり、女に宛てて文を書いたりもするが、土方に取っては部屋は、くつろぐ為の場所などではなく、執務室だった。
医師の指導で、静養を言いつかっていた沖田は、部屋の中で一日中横になっている。近藤のように手習いや読書をする気にもならないし、沖田は今まで、剣術以外のことにさほど興味を持たなかった。
剣をやりながら、俳句を嗜んだり、月や花を愛でたりする土方の方が、沖田には異質な者に感じられる。沖田にとっては、そういったものは、文士のやることで、軟弱なものだという気持ちが強かった。
横になってじっとしているだけで、労咳が治るものなのかは、沖田には解らない。けれど、医者がそう言うのだから、そうするほか無い。
(ああ、それにしても、退屈だ……)といい加減、うんざりしてきたところで、『みゃあ』という小さな声を聞いた。身を起こしてみると、少し開いた戸の狭間から、あの猫が見ていた。
暫く見ていると、猫はくるりと背を向けて、廊下に丸くなる。丁度好みの日当たりの場所なのかも知れない。沖田は、猫を驚かせないように、気配を殺してそっと近づいた。戸の隙間から、廊下を見る。まあるくなって眠る猫は、気持ちよさそうだった。よほど熟睡しているのか、沖田にも気付かない。
(かわいいもんだなぁ)と思わず顔がほころんだが、次の瞬間、そのほころんだ顔が、こわばって固まった。廊下。猫と若干の距離を開けて、土方が腰を下ろしていた。
(なんで、土方さんがこんなところに?)と沖田は土方に気取られないように、ゆっくりと布団に戻った。土方の部屋と沖田の部屋は離れている。わざわざ、ここまでこなければ、土方がここに居ると言うことはない。
まさか、猫ではないのだ。廊下で日向ぼっこというわけではないだろう。見られたくない書類を見ているというのでもないだろう。それならば、よほど、部屋の中の方が安心だ。
廊下を見た。猫の姿は無かった。もう一度、廊下に出てみると、土方の姿も無かった。一体どういうことだろうかと、立ち尽くしていると、一番隊の隊士達がズカズカと足音を立てながらやってきた。
「沖田隊長! 何をなさってるんですか! 床にお戻り下さい!」
大声で怒鳴る隊士達に、「何を言っているんだい。君たちが、うるさくて起きてしまったんだよ。廊下は、もう少し静かに歩きたまえ」と諫める。隊士達の部屋から、沖田の部屋までは、一本道だ。
「君たち、土方副長とすれ違ったかい?」
「副長ですか? いいえ。あっ、沖田隊長。副長に何かご用事ですか? でしたら、呼んで参ります!!」
返事も聞かずに走り出そうとした隊士に「いや、ちがうんだよ」と沖田は止める。「ちょっと夢を見てね。夢に土方副長が出てきたものだから」と言い訳をした。
「どのような夢だったのですか?」と隊士が聞く。沖田は、何の答えも用意していなかったが、本人の耳に入っても、問題がないような内容を告げた。
「……江戸の夢だよ。道場にいた頃の夢さ。近藤局長の試衛館道場だよ。土方副長は、入門が早くはなかったけれど、熱心だったからね」