「土方殿。我らに、宇都宮城、落とせますか」
秋月が聞いた。皆も、土方の答えを待っていた。土方は、じっとみんなを見回した。一人一人、目を合わせて見つめ返してから、
「できる」とただ一言言い切った。土方の言葉に、みな、ホッと安堵し、そして腹に力を込めて「よしっ。では、宇都宮城、参るか!」と、初陣の恐怖心を振り払うように、大声で叫んだ。
「では、各隊への伝達を。先鋒は、私と、辰巳殿で行く。中軍は秋月殿。後軍に相馬殿という順番だ。……出立は、深夜だ。物音を立てて、気付かれないようにしろ。気付かれたら、この作戦は、失敗する」
土方の言葉に、一同、頷いた。皆、鳥羽伏見で幾らかの実践がある程度だった。新撰組のように、常に戦いの中に身を置いていた様な者達でさえ、大きな合戦の前には、恐怖に襲われる。戦闘経験が少ないものたちならば、なおのこと、恐怖を感じるだろう。夜陰に乗じて宇都宮に乗り込む。この道程が、気が触れるほど、恐ろしく感じるだろう。皆が去った後、土方と島田は、二人きりになった。
「新撰組は、三十人か」と土方は呟く。「……少なくなったもんだな、新撰組も。一応、流山にいた者達は、別動で会津に向かわせてはいるがね………まだ、新撰組にくっついてくる物好きが三十人も居るって言うことか。芹沢さんも、近藤さんも、山南さんも……みんな居ないのになぁ。永倉君や沖田君もいない」
「私は……」と島田は土方を見た。「新撰組の名前について行くわけではありません。土方さんだからついて行くんです。地の果てでも、ご相伴致します」
真摯な島田の言葉に、土方は微苦笑した。「……そうか。付いてくるのか」
「はい。ついて行きます。冥土までも、お供
「いや、冥土は良いよ。一人くらいは、墓前を弔ってくれる者を残しておきたい。―――島田君にだから言っておく。勝てるかどうかは、運次第だ。運というなら、一つ、宇都宮に関しては朗報がある。今月の初めぐらいから、宇都宮は一揆と打ち壊しが横行していて、城内が疲弊しきっている。まだ、諸藩からの援軍は、多く集まっていないだろう。それは、東山道総督府の方もそうだ。役者が揃う前なら、何とかなるかも知れないが……」
「では、明日中に宇都宮城を
「そうだ。……秋月さんたちには言わなかったが、大鳥さん達の所も、壬生城で一悶着あったという話も、すこしだけ聞いた。宇都宮が終わったら、次は壬生に行くことになるかも知れないな」
島田は、常に土方の傍らにいるわけではないが、それにしても、この土方の情報は、どこから来ているのだろうかと、思った。新撰組時代から、監察部を統括していたり、監察部には様々な特権を与えていたことから見ても、情報に対しての感度は高いようだったが、元監察部の島田でさえ、土方がどうやって情報を得ているのか、よく解らなかった。
(そういえば、新撰組時代も、独自の情報を持っている人だったな)と島田は思い直した。監察部の自分たちよりも、早く正確な情報を掴んでいる時もある。
島田の視線に気がついたのか、土方は苦笑した。「……多少の金をばらまけば、この程度の情報はすぐに手に入る。素人を使うのは面倒ではあるがね。隊を整える事が出来れば、専属の諜報を作るが、そうも行かない。もう少し、自由が利く立場なら、私が自分で行ったところだよ。もっとも―――断髪洋装の
「そういえば……よく、山崎君と一緒に町に出ておられましたね」と島田は言った。言葉の端が、微かに刺々しい。焼き餅だろう。「山崎君は、良く薬屋の格好をしていただろう。
「……よく、
やけに絡むな、と土方は思ったが、ここで
「いろいろ手伝って貰うことがあったんだよ。といっても、主に薬研だがね。特に、何か話をしたわけでも、なんでもないけれど……まぁ、山崎を長い間部屋に置いておくと、近藤さんが
嫌な悪戯だ、と島田は思った。口には出さなかった。土方に振り回された近藤は、哀れなものだ。近藤と山崎の
ただ、その時、島田は聞いた。
『私が頂いてもよろしいのですか?』と。土方は、島田をじっ、と見つめてから、少し考えるような素振りをした。『それを持って貰うなら、島田君が良いね』と土方は言い切った。何の根拠があったのかは、島田には解らない。土方は、そのあたりをまるで語らない。
おそらく、理由はないのだ、と島田はその時思った。今も、理由など無いだろう。けれど、それで良いと思った。信じることに、あれこれと理由など要らないはずだ。ましてや、これは、命を預けられたも同然だ。ならば、よりいっそう、理由など、要らない。島田は、翌日から、土方の脇差を
何も言わないし誓いもしないが、絶対、である。
決して、衆道や男色といった感情を持ったわけではなかったが、土方の行動について、時折、嫉妬心が芽生える。特に山崎などは、仕事も島田に近い上に、土方が山崎に用事を言いつけたり、部屋で何らかの作業を行っているからだ。
「……人のものに手を出すのは、面倒だ」ぽつり、と土方は呟いた。確かに、それはそうかも知れないと島田も思った。
「島田」と土方は呼びかけた。「……どこかで、餅でも売っていたら、食べたいもんだね」
街道を行っているとは言え、今は戦の真っ直中だ。餅屋が餅をつくっているとも思えない。作っていたとしても、暢気に食べていられるかどうか……。
「あそこの餅は美味しかったなぁ。よく食べに行っただろう? ……北野ちかくの餅屋だよ。太閤さんの昔からあるんだなんて、店の主人は言っていたけど」
「ああ。美味しかったですね。良く、私と土方さんと、君菊さんで……」
「君は放っておくと二十個も食べてしまうからね」
ふっ、と土方は懐かしそうに笑った。『また、あの餅を三人で……』と思ったが、それが出来ないことを、島田は知っている。目を細めて、懐かしむような眩しそうな顔をした土方は、島田の前で、一つ、小さな溜息を吐いた。
(まただ)と島田は思った。土方は、ぼんやりしているようにも見えた。けれど、油断しているというのではない。時折、こうして、どこか遠くを見ているような顔になる。そんなとき、島田は不安になる。今ここに、土方が居るのに、
黒瞳は、どこか、島田が知らない遠くを見ている。土方は、ゆっくり瞼を閉じて、また、目を開いた。もう、どこか遠くは見ていない。島田を見ている。島田は、土方が『戻ってきた』ことに、安堵した。安堵したが、こんな時に、やりきれない気持ちになる。冥土までご相伴すると誓った島田だが、土方の隣にいても、同じ風景を見ることが出来ない。この人の目に見えているのは、もっと違うものなのだ。胸の痛みを覚える度に、いっそ、山崎が羨ましくなる。山崎は近藤に『義』を誓い、身を捧げたのだろう。いっそ、体の交わりでもあれば、こんなやりきれない気持ちになることはないのかもしれない、と島田は思うからだ。別に、土方と関係を持ちたいという気持ちはないが、胸に去来する、どうしようもない気持ちを、やり過ごしたいとは思った。