室は、沖田の身の回りの世話をする、と言った。今、咄嗟に思いついた、自分のやるべき事が、世話になった沖田隊長に少しでも恩返しをする、という事だったらしい。一晩中泣いていた男の出した結論としては、少々、情けない気がしたが、少しでも、前向きな気持ちになったのならば、と身の回りに控えることを許した。
「でも、室君。私は、長くないよ。だから、君は、己がどうするべきなのか、ちゃんと考えなければならないよ」とだけは言っておいた。ついでに、「私の菩提なら弔わなくて良い」とも言っておいた。このまま、ずるずると死後まで世話をすると言い出しては敵わないと思ったからだ。
室は、新撰組について聞きたがった。鳥羽伏見の戦いの顛末。勝沼の戦いと、最近の戦いのことも聞きたがったが、何よりも、文久三年の浪士組上洛からの話を聞きたがった。
「隊にいた頃、隊士達の中で御法度になってた名前があったので、聞きたかったのです」
と室は言った。室が聞いてきたのは、『芹沢鴨』だった。沖田は、さらりと、
「私と土方さんが殺したよ」と言った。室は面食らっていた様子だったが、尚も聞いた。
「芹沢さん、というのは、一番偉い人だったのですよね。筆頭局長、と聞いています。どんな方だったのですか? なぜ、芹沢さんを、殺したんですか?」
なぜ、と言われると沖田は困る。土方だ。土方が『芹沢さんを
あの時、なぜか、土方の言葉が正しいと、みんなそう思った。
「……土方さん……かな。土方さんが、芹沢さんを……殺るって言ったんだ。殺らなければならないって」
「曖昧な理由ですね」と室は言った。よほど、大層な理由があると見ていた様なだけに、落胆した口ぶりだった。たしかに、『芹沢鴨』の名前は、局内の禁忌だった。誰も触れてはならない。だから、もの凄い秘密があるのだと思っていたようだった。
「芹沢さんとは、どんな方だったんですか?」
「大男だったな。色が白くて……でも、剣術はもの凄かった。私も……たぶん、真剣でやり合ったら、勝ち目はない」
「沖田隊長が? まさか……そんなひとが、この世に居るわけがありませんよ」
ははは、と室は笑った。たしかに、室は、沖田の剣術―――いや、沖田の人斬りを、この目で見ている。だから、そう笑う。しかし、
「ちがうんだ、室君。芹沢さんは、違う。……とにかく、凄かったよ。私も、一度くらいは、芹沢さんが人を斬るのを見たけれど……、人の体とは、こんな風に斬れるものなのかと思った。刀とは、こうも、斬れるものかと思った。なんていうのかな……芹沢さんの手に掛かると、勝手に人の体が、寸断されるみたいだとおもった。すぅっ、と……気がついたら、斬れてるんだ。私じゃ、ああは行かない。流派の違いとか、そういう問題じゃない。あの人は、違う」
室は、沖田の言葉に、驚いたようだった。室には、想像も付かないが、沖田は、芹沢の剣術に、恐怖を覚えていた。それは、室にも、感じたらしい。
「……普段は、大酒飲みで……いつも酒臭かったよ。酔っ払うと、酷くてね。ホラ、島原に角屋さんという揚屋があっただろう? あそこを総揚げにしたことがあったんだがね。なぜか、角屋さんは、ひとりも角屋の仲居を使わずに、よそから借りてきた仲居を使ったんだ。まぁ、私たちが乱暴狼藉をすると思っていたんだろうね。いくら何でも、乱暴狼藉を花町でやらかしたら、二度と入れなくなる。そうなったら、困るのは私たちの方だから、そんなことをするわけがない。でも、角屋は、私たちを信用しなかったんだね。芹沢さんは、それを無礼だ無礼だと怒ってね……。その辺中のものをたたき壊して、大暴れをしたわけだ。二階に居たんだけど、二階のものを……それこそ、置物から掛け軸から、全部壊し回って、一階も壊して。……それで、土方さんに『これでスッキリした』なんて言ってから、奉行所に行って、角屋を七日間戸締めにしてしまったようなこともあったよ」
まったく、仕方がない人だろう? と言おうとした沖田は、室が不思議そうに見ていることに気がついた。
「芹沢さんと……土方先生は……仲が良かったのですか?」
えっ? と沖田は思った。酒に酔った、芹沢を思い出した。酷い酒乱だった。ついでに、音痴だった。『いざさらばァ 我も波間に漕ぎ出でてェ あめりか船を うちや払わん』と謳うのがクセだった。局内では『芹沢さんの作った歌』で通っていたが、
なにか、いやなものを思い出した。土方は、酒をあまりやらない。苦手だという。だが、一度や二度、したたかに酔ったこともある。土方でも、やけ酒をやりたくなる時があるのだと、何となく不思議な気分になった沖田だったが、酔って、足下も危ないのを、隊士達に半ば抱えられるように帰ってきたことがある。
『いざさらばァ 我も波間に漕ぎ出でてェ あめりか船をォ うちや払わん』
調子外れの歌を、口ずさんでいた。土方を運んできた隊士は、芹沢が
そういえば、芹沢暗殺の夜。
『少し飲み直しましょうよ』と芹沢を誘い出す役割だったのは、土方だ。
(なぜ、気付かなかったんだ)と沖田は、血の気が引くのを感じた。あの時、芹沢は、近藤一派の動向を気にしていた。新見錦が、近藤一派に殺されているのだから仕方がない。勿論、これは、芹沢も
『俺が
(もともと……土方さんは、芹沢さんと、仲が良かったんだ)
そういえば、と沖田は思い出した。これ以上、思い出すな、と心のどこかが咎めたが、思い出してしまった。沖田や土方は、頻繁に、佐藤彦五郎に手紙を出している。佐藤彦五郎は、土方にとっては姉の嫁ぎ先だが、新撰組にとっては、大切な『支援者』だった。浪士組として上洛してから、新撰組の組周りの資金もそうだが、天然理心流の道場の世話の方も、随分していたようで、沖田は、手紙の文末には、道場のこともよろしく頼むという一言が添えられることが多かった。
その、佐藤彦五郎の手紙で、こんな事を聞かれたことがある。
『歳三の先日の文には、妙なことが書いてあった。女の名前が列挙された上に、『報国の心を忘れる婦人かな』という句が添えてあったし、平の家に届いたものにも『いざさらば 我も波間に漕ぎ出でて あめりか船を うちや払わん』という句が添えてあった。この度、『新撰組』などという名前を頂き、会津様のお預かりになったとのことだが、何か、あったのではないか?』というものだった。たしか……。
(文久三年の暮れ頃に届いた手紙だ。暮れの挨拶と共に送られてきた手紙だった)
とすると、土方が手紙を送ったのは、山崎や島田を入隊させた、十一月くらいの時期だろう。つまり……芹沢を九月十六日の夜にころしてから、間もない頃だ。あの頃の鮮明な記憶はないが、土方が、そんなに女狂いをしていた記憶もない。第一、その頃、土方も沖田も、近藤も、みんな、金はなかった。女を買うような余裕は無い。勿論、金が無いというのに、掛け買いしてまで、女通いをしていたものも居るが……。けれど、わざわざ、佐藤彦五郎の所にそのような手紙を送りつけるのだから、おそらく、土方は、相当、参っていたに違いない。芹沢を殺したことを、悔やんで悔やんで、毎日のように、こっそりと女の所に行って、縋り付いていたのだろう。島原の太夫から、上七軒の芸妓、大坂にも女は居たという。それで、『報国の心を忘れる……』など戯れ歌を書いてよこしたのだろうが、本心としては、もう、報国だの攘夷だの、止めてしまいたくなったに違いない。
「……隊長。どうかしましたか?」と室が声を掛けてきたので、沖田は我に返った。険しい顔をしているのが、沖田自身にも解った。
「いや、なんでもないよ。ああ……土方さんと、芹沢さんだったね。うん、あの二人は、
にこり、と沖田は笑った。痩せこけた顔が、無理矢理作った笑顔は違和感があった。室は、「そうですか」とだけ呟いて、それ以上、追求はしなかった。
(そうだ。芹沢さんと、土方さんは、仲が悪かった。だから、土方さんは、芹沢さんを殺した。伊東さんの時もそうだ。近藤さんも、そうだ)
沖田は、無理矢理、そう思い込もうとした。一人で居ることが好きな、猫の様な男だと思っていたのに、その猫が、勝手に、誰か別の人間に懐いていると思ったら、とたんに、腹立たしい気持ちになった。得体の知れない気持ちだ。一体、どうしてしまったのだろうかと思うが、なにか、嫌な気持ちになった。
「……近藤さん……」
「え? なんですか、隊長」
「ああ……いや、近藤さん……近藤さん、近いうちに、斬首になるらしいって聞いたから。私は、近藤さんの首は、土方さんみたいに酷い人の所に渡って欲しくないなと思ったのだよ。私は、近藤さんを、終生、師として敬愛することを誓っているからね。近藤さんの首級が、穢されたりするのは我慢がならないな」
室は、不思議そうな顔で、沖田を見ていたが、「……それならば」と呟いて居た。「それならば、私が、土方先生より先に、近藤さんの首級を、引き取りに参ります」
「けど……引き取ってどうするんだい」
「ひきとって……然るべき寺に、弔って頂きます」
室の言葉に、沖田はくすり、と笑った。「
「で、ですから……土方先生が知らない寺に……。手が届かないような寺……が、きっとあるはずです」
「じゃあ、室君。君に頼もうか。……近藤さんの首。土方に渡すなよ」
沖田総司は、室を見た。ゾッとするような視線だった。
室は、その夜、板橋に向かうと言って出ていった。板橋の総督府に行って、近藤の状況を聞き出すつもりだろう。もしかしたら、ここには戻って来ないかも知れないし、近藤の首の件も、うやむやになるかも知れない。だが、沖田は、きっと、室は、沖田の命令を守るだろう、と思った。今の室は、何も考えて居ない。目の前に、自分の動く理由が出来れば、それに従うしかない。
「……土方さんも、未来のない行軍をしているみたいだ」と沖田は、誰に聞かせるでもなく呟いた。「だから、私の所に挨拶に来たのさ。あの人は、きっと、死ぬ気だよ。本当は、死ぬつもりなんて、さらさら無いくせに、死ぬなんて思っているんだ。私と、近藤さんと、土方さんと、三人で誰が冥土に一番乗りをするかなァ」
くすくす、と笑った。久しぶりに、愉快な想像だった。文久三年。二月。浪士隊に応募した試衛館道場は、無名の田舎道場と言うことで、全員が平隊士になった。つまり、『武士』階級の沖田と『農民』階級の土方は、この時、浪士隊という狭い枠組みの中で、『同格同僚』となってしまった。
それまで、土方は沖田を『沖田様』と呼んでいたが、『同士』となった以上、その呼び方は適当ではない。『沖田君』になった。壬生浪士組が成立し、土方が副長、沖田が副長付助勤(隊長)となった時、『沖田』か、近藤が時折呼んでいたように、『総司』になった。この、浪士組は、社会の片隅とは言え、身分制度を崩してしまったのだと沖田は思っている。いまや、同じ幕臣、と言っても土方は、幕府軍の参謀各だ。沖田などには手の届かない大出世ではないか。
「ふん、沈みゆく船の船頭になって喜んでるんじゃ、土方さんも、おめでたいねぇ」と毒づきながら、沖田は笑った。
「土方さんと近藤さんと、多摩の田舎で仲良く弔ってなんかやるもんか」
沖田は、土方の実家の石田村や佐藤彦五郎の居る、日野宿の風景を思い出していた。甲陽鎮撫隊の勝沼出陣では、日野宿に立ち寄った。土方・近藤にしてみれば、凱旋の気持ちだろう。沖田も、その時、病身を奮い立たせて、正装で佐藤彦五郎に挨拶をした。
京から、何度も何度も、道場を頼むと願った沖田である。今生最期に、せめて一度対面して礼を言わねば、武士として礼を欠いた行いだと思ったのである。
日野はよい場所だった。佐藤彦五郎は、土方を始め、新撰組の心配をしてくれた。心配のあまりに、『春日隊』という隊までつくり、勝沼出陣に参加してくれたと言うことだ。得意満面の近藤に対して、土方は、異常に暗い面持ちで、話しかけても、ろくに答えなかったし、ムッとしていて、近寄りがたかった。勿論、土方は寡黙だ。だが、親類縁者に会っても、無表情で、殆どを無言で通していた。
『土方さんも、緊張してるんじゃないか』というものも居たが、それにしては異様であった。沖田は、過去に何度か石田村や日野を訪れたことがあったが、その時も、似たような雰囲気だったことを思い出した。
沖田の見た、土方の句集は、殆どが、武蔵野の春を詠んだものだった。春の月。春の雨。玉川。春の山……。菜の花。桜。梅。白牡丹。雪。鶯。千鳥。鮎。稲の花。不思議なことに、夜や早朝の句が多い。
技巧を凝らした句などではないが、その時々の、小さな、ささやかな感動が、そこにひっそりと込められていて、沖田は、それを見て、なんとなくホッとしたのを覚えている。最初にあった時の『人斬り……』の質問から、危険な男かと冷や冷やしていたからだった。中身を暴いてみれば、稲の花についた朝露の美しさや、春の月の朧、梅の花の凛とした匂い立つ美しさ、白牡丹の星月夜に輝くような美麗、一面菜の花畑の向こうから指してくる朝日、誰も踏み荒らしたものの居ないまっさらな雪の庭……、そういう、本当にささやかなものを美しいと、愛するような男だった。
(あんなに、武蔵野が好きで……武蔵野を懐かしんでいた人なのに、なんで、帰郷したのが、嬉しくなかったのか……)
それこそ、喜び勇んで、浮かれた句の一つでもひねり出すのが、普通では無かろうか。
いや、違う、と沖田は思った。土方と近藤は、勝沼に向かう時に、改名していた。近藤は、大久保大和。土方は内藤隼人。
(故郷凱旋なんかじゃなかったんだ……)
土方は、故郷を棄てたのだ。名前も棄てた。内藤隼人という別人の、幕臣として、日野宿に立ち寄ったのだ。親類縁者にも、疎遠な態度だったのは、その為だ。
(土方さん、故郷が、嫌いだったんだ)
そしておそらく、土方が本当に欲しかったものが何なのか、沖田には解った。
「あんたは、バカだ」と沖田は呟いた。土方には届かないだろうが、言わずには居られなかった。「なんで……
春を見捨てて征く先は、花のない場所だ。土方が生きていけるはずがない。