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第六章

第1話

 東山道軍は、岩倉具視の子息・具定ともさだを総督として進軍し、宇都宮城に駐留していた。大軍監は香川敬三。香川は、かの近江屋事件で坂本龍馬と共に暗殺された、中岡慎太郎率いる陸援隊で副隊長格を務めていた。


 香川は、元々、水戸の出身だった。藤田東湖の私塾に学んだ、純粋な水戸学の勤王志士だった。一時は、当時一橋家に養子に出されていた德川慶喜の側近になったが、急進路線を危ぶんだ慶喜から罷免されたという。


 宇都宮城で、幕府軍を待ち受ける香川は、ある、連絡を待っていた。


 宇都宮に来る途中の流山で、一人の男が、板橋の総督府に出頭してきた。


 厳つい男だった。がっしりとした巌を思わせるような、強さを感じた。『大久保大和』と男は名乗ったが、そのものが、『新撰組の近藤』だと解って、捕縛した。


 香川は、『新撰組』が憎かった。真偽の程は確かではないが、坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺したのは、『新撰組』という噂も飛び交っていた。それは噂で終わったが、後日談がある。紀州藩士・三浦休太郎らが、坂本に恨みを抱いているという話を聞きつけたのだった。坂本龍馬は、いろは丸沈没事件の賠償金を紀州に請求していた。この支払いを逆恨みに思った、紀州藩士が居るという事になった。海援隊・陸援隊では、この三浦を討つ、という計画を立て始める。


 危機感を覚えたのは紀州藩である。仕方なく、会津藩に要請し、新撰組に警護を依頼したのだった。そして、ついに、事件は起きる。


 慶応三年十二月七日。天満屋二階で酒宴を開いていた、三浦と新撰組隊士達を、海援隊・陸援隊隊士達が急襲した。


 三浦は負傷したが、無事だった。襲撃側は、坂本龍馬と親交があり、三浦襲撃の首謀格でもあった、中井庄五郎が死亡し、新撰組も死者二名を出して、『天満屋事件』と呼ばれるこの事件は、幕を下ろした。


 香川がこの事件に係わったかどうかは不明だが、とにかく、海援隊・陸援隊にとって、『新撰組』というのは、名前も聞くのも甚だ不愉快になるほど、憎らしい相手だった。


 もし、出来ることならば、新撰組の局長の首を獲ってやりたいものだと、本気で思っていた。だからこそ、今回、香川は東山道軍に喜んで参加した。新撰組の近藤の首は獲れなくとも、その親玉である、会津の首は取れる。それならば、道半ばで命を絶たれた、坂本龍馬・中岡慎太郎の敵を討てることになる。


 新撰組は、香川にとって唾棄すべき相手であったが、局長・近藤勇を一目見た時に、『この男を殺すわけにはいかないのではないか』という気持ちになった。理由などわからない。ただ、死なせるには惜しいほど、気力の漲った、男だった。


 取調と称して、幾らかの会話を交わすうちに、ますます、殺してはならない、と思った。


 新撰組を、最も憎んでいるはずの香川が、このような気持ちになるのは不思議だった。


「近藤殿」と香川は呼びかけていた。「新撰組もろとも、我らに付かぬか」


 近藤の顔が、一瞬にして紅潮した。敵の軍門に下るなど、愚弄されたと、思ったからだった。それを悟った香川は、「いや、済まぬ」と詫びてから、「私は、元々、陸援隊の副隊長格だった。あなた方新撰組のことは、相容れぬ存在として、嫌ってここまできたが………」と香川は言を切った。次の句を、どう接ごうかと迷う香川に、


「我らは、蛇蝎のごとく嫌われても仕方がないことをしてきた」と近藤は、きっぱりと言い切った。


「……いや、近藤殿。私は、あなたと話をして、あなたを、死なせたくない、と思ったのだ。あなたも、死なぬ為に、ここに来たのではないのか? ……わざわざ、出頭してきたのは、敵意がないことを示し、恭順すれば、命だけは助かると、そう、見込んでのことではないのか? で、あれば、我らに、力を貸して頂きたい」


 香川は、切々と、近藤に訴えた。近藤は、黙して語らなかったが、暫くしてから、


「そうか」と呟いた。「俺は、首を切られると言うことだな」と静かに言った。


 実のところ、この四月十一日の時点で、そこまで明確には決まっていなかった。ただ、今まで、新撰組に、恨みを持つものが多くいた為に、過激な意見に傾きつつあったのは明白だった。その流れで行けば………近藤に待つのは、死、だ。


「共に、戦って貰えれば、斬首などさせぬ」


 香川は言い切ったが、近藤は「他の方々が、新撰組と共に戦う事を由としないだろう。それに」と一度言を切った。「新撰組は、もう、瓦解した。一番隊隊長沖田総司は、死病に伏せっている。二番隊隊長永倉新八、十番隊隊長原田左之助らは、袂を分かち、決別致した。いまや、甲陽鎮撫隊と名を変えた、我ら新撰組も、この世にはない。今後、深紅の『誠』一字が、戦場に翻ることはない」


 近藤の断言に、香川は唇を噛み締めた。だが、どうしても、諦めることも出来なかった。


「……では、近藤殿。私が帰るまで、しばし考えて居て欲しい。もし、共に戦ってくれるというのならば、私宛に、言伝を頼む。私は、これより、会津に向かう」


 会津――――。と近藤は固唾を飲んだ。いまから、大規模な戦が始まるのだ。そのこわばった表情は、香川もよく解ったが、とにかく、北へ―――。北へ向かわなければならない。早く、戦を終わらせることは、香川の務めだった。幕府側に、体制を立て直す時間を与えてはならない。その前に、決定的な一戦で勝ちを収めなければならない。そして、時代は、転換する。その為に、行かねばならない。


「私が戻るまで、近藤の首を斬るなよ」と総督府には厳命した。どこまで、守られるか解らないが、死なせてはならない、とだけ思った。



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