俺は玄関の壁に背を預けながらぼんやりと天井を見ていた。息をする度に腹の奥から全身に鈍痛が響き渡る。口からはぽたりぽたりと生暖かい液体が顎の方へと伝う感覚がした。
段々と視界がぼやけていき、力を無くした俺は項垂れるように顔を腹の方へと向けた。右の脇腹から赤黒い液体が流れ出て黒のスラックスに染み込んでいくのが見えてしまう。その場所を震える手で強く抑えているが、それもあまり効果がないようだ。
温かい水たまりが尻の下に広がっていくのを感じた。鼻はむせ返りそうな鉄の錆びた香りを嗅ぎ取った。体が急激に冷えていく。助けを呼ぼうにも体は言うことを聞かない。今、俺の頭の中では、(ああ、死んだな、こりゃ)という諦めの気持ちが浮かんでいた。
──ねぇ、
薄れていく意識の中、どこかで聞いたことのある言葉が聞こえた気がした。幻聴とも思えたその声はやたら現実感をともなっている。どうやら脳が現実逃避を始めたようだ。
願い事なんて馬鹿馬鹿しい。そう思いながらも少しばかり願い事について考えてみる。しかし、頭を捻ってみるが何一つ願い事が思い浮かんでこなかった。
「願い事、か……」
口からはぽつりと言葉が漏れる。数十年間ただ生きるだけで精一杯だったからか、残念なことに今の私は叶えたい願い事なんてたったの一つも持ち合わせてやいなかった。それなりの暮らしで不自由なんて感じたこともなかったし、趣味というものを持たずに生きてきた人生だった。
欲しい物もなければ、夢もない。要するに、俺は今より上の暮らしを目指さなかったというわけだ。俺は一人で幸せになんかなりたくなかった。
(願い事、願い事ね……)
もし願い事が叶うなら、生き延びたいと願うべきだろう。だけど、俺にはもう生きる気力なんてこれっぽっちも残っていなかった。
(⋯⋯これ以上生きたところでなぁ。俺をこんな風にしたやつへ報復でもするか?)
家から逃げて行った男の事がぼんやりと頭に浮かぶ。俺が生きていれば証言ですぐに捕まえられるに違いない。しかし、そんな気はこれっぽっちも湧いてこなかったし、不思議と怒りもなかった。いずれ人は死ぬ。それが少しばかり早まっただけだ。
俺が死んでも、悲しんでくれる者はもうこの世にいない。三十年ほど前に、妻である佐奈を亡くした。そこから結婚をしないまま六十まで生きた。友人との付き合いもめっきり減り、一人きりで過ごす日々。会社ではそれなりの地位にいるが、最近では仕事も回されずに俺は会社に居ても居なくても同じ扱いだ。今すぐに死んだとしても悔いややり残しなんて物はなに一つもない。
ある意味、人生を無為に過ごすぐらいならこっちの方が潔く諦めがつく。俺が死んだ所で世界に何の影響もない。まぁ、強盗がのうのうと逃げ延びているのだけは少し癪だが。
こんな俺に叶えたい願い事なんて……ああ、一つだけあったな。こんな昔の事を今更思い出すなんて思いもしなかった。
「……家族が欲しかったな」
佐奈との約束が脳内に蘇り、溢れた思いが口から漏れた。目がかすみ、視界がぼんやりと滲み始める。ぼやけた目の奥では、彼女との思い出がまるでフィルムのように次から次へと浮かんでくる。そこに映っていた佐奈は、今の俺には眩しすぎる程の笑顔だった。
子供が欲しいなぁ。彼女は確かにそう言っていた。それは別に、自分たちの血を残したいだとかの高尚な物ではない。ただ純粋に幸せをわかち合える存在がほしかったのだ。同じ嬉しさや悲しさなんかを一緒に感じてくれるそんな存在が。
もし佐奈が長く生きていればどんな人生だったのだろうか。想像なんかしなくてもわかる、それはとても幸せな物だ。
「女々しいな、もう三十年も前のことを」思わず苦笑してしまう。生活の中で何回も彼女のことを忘れようとしたのに、今際の際に思い出してしまうとは。
不器用な人ね、私のことなんか忘れてよかったのに。そう彼女が苦笑いを浮かべながらぼやいている姿が目蓋の裏に浮かんだ。頬に冷たい雫が伝っていくのを感じた。
「そう言うなよ、俺にはお前だけだったんだ……」
もう目が開かない。意識を何かが呑み込もうとしているのを感じる。それに呑み込まれた時に俺が死ぬのだろう。
佐奈が待っているところへ俺は向かう。ようやく、彼女と再会することが出来るんだ。そう考えると不思議と怖さを感じない。むしろ、こんなに嬉しいことはないと思えた。
そうだ願いを忘れていた。もし願い事が叶うとしたら、次の人生では家族で幸せになりたい──
そう思った瞬間、世界が、闇に染まった。
……ここはどこだろう。
ふっと意識が浮上する感覚がした。まるで寝ている最中に無理やり起こされたような感覚だ。辺りは真っ暗で何も見えず、俺が今どこにいるのかわからなかった。
身体を動かそうにも自身の身体があるように感じない。それなのに意識だけがここにはある。真っ暗な周りも見えないような深海の底。上下左右という概念があるのかすらわからない場所で揺蕩うことしか出来ない。
どうやってここに来たのかを思い出そうとしたが、何も思い出せなかった。そもそも、
色々な物が記憶から抜けて落ちていることに気付いた。名前、歳、住所、仕事。これらを始めとして、最近の生活も全部。俺という存在が消えていく感覚に身震いをする。
ようやく思い出したことすら俺の中から消えて、自分が何を思い出したのかすらわからなくなる。すべての記憶が俺からはがれていく、それは俺が俺でなくなっていくということだ。
俺の心が恐怖という真っ黒な物に塗り変えられていくのがわかった。孤独は嫌だ、もう一人きりにしないでほしい。誰か、誰か傍にいてくれ! ──奈!
──有人さん。大丈夫だよ。
はがれ落ちる記憶の断片から声が聞こえてきた。それは一瞬の出来事だったが、俺の心を落ち着かせてくれた。今のは、誰の声だったんだろう?
もう思い出せないが、その人が俺にとって大切な人だったことだけはわかった。さっきまで感じていた恐怖心は既になく、代わりに温もりを感じている。それで、落ち着いて今の現状を把握することができた。
……ここが死後の世界なのかな?
自分の置かれた立場にようやく気付いた。次の自分に今の記憶なんて不要だ、だからこうして自我と一緒に消えていく。考えてみれば当たり前のことだった。
──ありがとう。
声の人に心からの感謝をした。最後まで俺の中にいてくれてありがとう、と。そのおかげで、落ち着いて次の人生を迎えられそうだ。
やがて、闇の奥に光が見えた。あれがきっと違う自分だろう。
人はこうやって新しいじぶんに移っていくんだな。さいごにのこるのは、はだかのたましいだけ。そうか、そうなんだな。
ひかりへとちかづくにつれて、いしきがきえていく。このままゆっくりねむろう。つぎのじんせいのために。
────あああぁあああああ!
──────ひかりのなかで、なきごえがきこえたようなきがした。