一方、丙良の寮。
一通りピザを食べ終えて、三人とも休息をとっていた中。ベランダの方で、少し重めの音がした。
三人は警戒しつつ、がらりとベランダの窓を開けると、そこにいたのはエヴァとの用を済ませたクランであった。
礼安が完全に警戒したのを皮切りに、全員が変身準備を整える。しかし、全くもって敵意の類を感じさせなかったために、むしろ焦りすら覚えるような表情であったため、皆不信がった。
「……一体、何の用かな? こんな夜に、そしてまあまあ油断していた僕たちに何をしに来たのかな」
「……敵意は無い。この通りだ」
そう言うと、クランは両手を上げて降参の体勢をとっていた。
礼安を除く二人が脳内を疑念で支配されている中、礼安が部屋の中に入るよう促した。その表情は、到底敵に見せるようなものではなく、まるで夜遅く、寒さに震え帰ってきた子供を見やるような、慈愛に満ちたものであった。
「まだ四月になっていないし、そこは寒いよ」
礼安の度を越えたお人よしさに、二人はどこか根負けして、クランを寮の中へ迎え入れる準備に取り掛かった。
今の今まで男一人女二人でも広々としていた部屋が、クランが座っただけで一気に圧迫感を増した。天井と部屋の幅が数十センチ縮まったかのようであった。クランの前に置かれたソフトドリンクが入ったマグは、大きいはずなのにまるで小ぶりな湯呑のようであった。
「……で、いったい何の用だい? 夜遅くに人の家のベランダに迷い込むってのは。しかも血相抱えてさ」
「……俺のせいだ」
丙良がそれについて聞こうとした瞬間、目の前にデバイスを置くクラン。少しの立ち上げ時間の後、映し出された映像は衝撃的なものであった。
それは、エヴァがフォルニカに襲われている様子であった。
「ほんの少しばかり前のことだ」
クランは、礼安たちにエヴァと密会していたことを明かす。そこでクランが明かした身の上、そして肉体の不死性、エヴァが作り上げた礼安のための武器など、すべて。
「事態は急を要することになる。本当に申し訳ない」
そういって、クランは土下座した。慌てる二人をよそに、礼安はぽつりと呟いた。
「本当に……私が貴方を殺さなきゃ、いけないのかな? 英雄が悪い存在を倒すのは分かるけど……殺すまでしなきゃ、いけないのかな」
少し前に、ゲーム内とはいえ心を割いた存在を目の前で切り捨てた痛みが、彼女の中にまだ残っている。
英雄は、悪人と相対して戦い、無力な公的機関の肩代わりをするもの。無力化して司法に引き渡し、見返りも大して望まない存在。あくまで、殺しが目的ではないのだ。
そんな中で、大衆が望むのは、クランのような存在の死。その認識の乖離が、礼安にとってたまらなく許せないものであったのだ。
ただ殺せばいいのなら、世界規模で仕事を承るような殺し屋にでも仕事を斡旋すればいい。善意やお節介で活動している存在が大勢いる中で、そんなことを頼むのは酷である。
特に、クランの眼前で彼自身に悲しい目を向ける彼女らにとっては。
「――――世の中は悪に対して何やってもいいと考えてる、正義の名のもとに。事情を知らない人間は、いつだって殲滅を望んでいる。悲しいけどね……そうまでしないと世の中は認めてくれない。人からの支持が得られない英雄の最後は、惨めなものだよ」
礼安は深く俯いた。
大衆の平和のためには、どうあっても正義と言う概念を振るって悪人を痛めつける必要がある、それが大衆の総意である。
いくら更生の余地が存在する存在でも、皆が殺しを望んでいる。その意見に関しては、全部が全部納得は出来なくとも、しっかりと分かるのだ。
大衆は、特段大きな力を持っているわけではない。だからこそ、いざという時言葉の力や圧力で全ての流れを捻じ曲げにかかる。それこそが、「悪人を正義の名のもとに断罪する」悪い流れである。
凶悪犯が明らかになった時、どんな刑罰よりも死刑を望む。自分が受ける訳ではないから困らない。悪人には死を。冤罪だとしても、それが明らかになるまで世は訴求し続ける。
最も恵まれた立場にありながら、最も板挟みになっている立場こそ、英雄であるのだ。
「俺は、長く生き過ぎた。そして俺の中にあるペリノア王の因子は、戦友と戦い消えることを望んでいる。瀧本礼安、貴様の正義を成し遂げるために、そして英雄として名を上げるために、俺は、俺の命は踏み台になったってかまわない」
俯く礼安を庇うように、院はクランを睨み付ける。
「もうそれ以上はやめなさい、クラン。礼安を困らせるなら、私が――」
「院ちゃん」
礼安が院の言葉を遮った。弱弱しくではあったが、院が言の葉を紡ぐことをやめるには、十分であった。
「礼安、これは貴様のためだ。貴様がより良い英雄となるための……」
その瞬間、礼安はクランを平手打ちしていた。躱すほどの武芸を身に着けていたクランでさえ、その時を予知することはできなかった。
「……敵対しているとはいえ、誰かを殺す……そんなことで、私は英雄として名を上げたくなんかない」
礼安の声は、震えていた。目に涙を湛え、怒りを面に出していたのだ。
「今の世の中が、敵対している何かを殲滅することで皆が喜ぶなら、私はそんな道歩きたくないし、それを良しとする英雄にもなりたくない。皆が幸せになってこその世の中なのに、世の中にいるはずの『敵対していた誰か』を排除することが必要なんて――そんなの間違ってる」
クランは、頬に残った確かな痛みが、ずっと続いているような感覚があった。頬を伝って、やがて心に突き刺さる。礼安の甘くも、優しすぎる心が、クランの心に確かな痛みを残すのだ。
「クランさんにとって、私は甘いんでしょう……でも、私は誰かを確かに救い続ける英雄になりたい! それが敵だろうと何だろうと!」
クランを抱き寄せる礼安。力は決して及ばない。だが強い思いがクランの重い肉体を動かしたのだ。
「だから! 私がいる限り、貴方が生きることを諦めないで!!」
クランの肩に伝わる、液体の温もり。クランの中にある強い決心が、大きく揺らぐ。
英雄とはいえ、一人の女を泣かせてまで叶えたい願いは、こうもちっぽけなものか。
今までの永い時を経て、「死に場所を見つけたい」という願いは、誰かを不幸せにしてまで叶えたい願いだったのか。
もし礼安が純然たる正義の人として生きていくのであれば、今ここで殺したってかまわなかっただろう。
しかし、彼女のことを深く理解していたのは、まだ出会ってそう日が深くないエヴァのほうであった。ペリノア王はアーサー王のことを深く知っていたであろうが、クラン自身は彼女の優しすぎる性格の底を、全くといっていいほど理解できていなかったのだ。
「――あと五百年前に出会っていれば……こんな俺でも少しは俺も変われたのかもしれない」
そう呟いたクランは、泣きじゃくる礼安を優しく剥がし、飲み物をくれた二人に礼を言って、ベランダの窓を開ける。
「少し、考えを整理する。また、そう遠くないうちに会おう」
そういって、クランは姿を消した。礼安の慟哭の影響で、最後まで彼の表情は曇ったままであった。
しかし、この激動の時間は終わってはくれない。
クランが去ってすぐ後に、丙良のデバイスに連絡が入る。
少ないコール数で応答すると、声の主はとても慌てふためいている様子で救援を求めたのだった。
『至急、連絡橋を渡って東京に向かってください! 渋谷で教会の人間が盗難武器を持って暴れています!』
丙良はすぐ向かう旨を伝え、準備を始める。礼安たちも同行しようとするも、丙良は今までの優しさのにじみ出る雰囲気から一転、一人の英雄の厳しい表情を向け二人を制止する。
「君たち、今のオペレーターの声を聴いただろう? 今回ばかりは無茶させられない。何より、礼安ちゃんは今精神状態にブレがある。そんな状態で戦場に向かっても、良くて誰かの
丙良自身、非情なことを自分自身で言っている自覚はあった。しかし、自分の目の前で誰かが力不足によって死ぬなんてこと、彼のプライドが許しはしなかったのだ。
だが、礼安は涙を乱雑に拭き、デバイスを手に持ち、立ち上がる。
「……私にだって、やれることはあるよ」
ゲーム世界で成長した二人。その二人の瞳は
「……二人とも、そういえばあの一回きりの非常用ライセンス、使ってないよね」
黙って頷く二人を横目に、長袖のパーカーを羽織る丙良。
「じゃあ、
その三人の後ろ姿は、まさしく凛々しかった。