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第百三十九話

 そして、それで割を食うようになったのは信之であった。真面目な優等生であり続けた信之の評価は、一切良くならなかったのだ。むしろ、不良グループの頭から足を洗った信玄をより高く評価し、元から真面目だった信之は「ちゃんとやって当然」と言われ続けた。

 信之を褒める人間は、誰一人いなくなったのだ。皮肉にも、信玄のせいで。

「何でだよ、何で俺は報われないんだよ……!!」

 次第に焦る信之を、両親は酷く責め立てた。信玄のいないところで、より酷い虐待行為を働くようにもなったのだ。日常的に身体と言葉の暴力を振るう両親に対し、敬う気持ちなど欠片もなくなっていた。

「――世の中は、不公平だ。いつだって……最初から真面目な人間を誰も評価なんてしない。感動的に見えるドラマがある人間に、誰もかれも飛びつく。自分がその利益を、吸い尽くしたいがために」

 信玄への歪んだ嫉妬心は、やがてそんな彼を崇め奉る両親への殺意に変わっていく。日に日に、大した才のない信之への暴力が苛烈になっていく中、煮えたぎるマグマのような怒りが増していく。

 そして、ついに。

 信之は日々の虐待に耐えかねて、信玄の中学卒業式の日に両親を殺害した。包丁を手にした信之は、ヒステリックを起こす母親を、背後から何度もめった刺し。一切の躊躇などあるはずなく、その勢いのまま父親の喉笛を何度も切り裂いた。

 華やかだったリビングが、一瞬にして紅に染まる。信之が卒業式を終え、友達との別れを悲しみながら、その現場に居合わせてしまった。

「信之……お前……」

 通学用鞄を力なく落とす信玄。達成感に顔が緩んだ信之が、両親だったものの中心に立つ。

「ああ――兄貴。全て……兄貴が悪いんだよ。俺を引き立てるとか言っておきながら……中途半端な正義感ヒロイックに目覚めちゃったから」

 口角は上がっていたが、静かに涙を流していた信之。初めから持たざる者であった彼は、両親を手にかけてから、まともな人間としての心を失ったのだ。世の中に踊らされた信之は、信玄とは異なる道を歩んでいく。どれだけ隠そうとしても、いつかぼろが出る。

 普通なら、そんな弟を全力で止め、警察に突き出すだろう。どれほどの思い出があろうと、むしろ相手を想う気持ちがあるなら、諭し一緒に自首しに行くだろう。

 しかし信玄は、包丁を未だ握りしめる信之を力強く抱きしめたのだ。

 どれだけ隠そうと、虐待していたことは信玄も理解していた。自分が成功街道を歩いていく中で、彼は必然的にそのあおりを食らう。丙良というターニングポイントによって、それがより顕著に。

「――信之。一緒に逃げよう」

 だが、信玄は信之を庇う選択を選んだのだ。

 冷静に考えるなら、この場を掃除し死体を処理するなど、そういったことを行ったことのない中学生がどうにかできるほど甘い話ではない。放置しようと腐乱臭に悩まされる。中途半端な処理は足がつく原因となる。

 それでも、罪の十字架を背負う選択をしたのだ。自分が理由なら、少しでもその負担が楽になるよう。人として、兄として間違った選択であろうと、少しでも罪滅ぼしをしたかったのだ。

 その瞬間、信之は全てを悟った。最初から運命に選ばれた男である自分の兄は、やはり自分とは相いれない存在であると。

「兄貴……もう俺に近寄らないでくれ。どんな理由があろうと……俺は兄貴を憎み続けるよ。だから――俺の恨みを背負って、英雄として強くなれよ。持つ者なんだろ、俺と違って。俺なんかに構って、目標見失う方が両方損だろ」

 抱きしめる兄を、無慈悲に突っぱねる信之。恨み、憎んだ兄を少しでも遠ざけたかったのだ。中途半端なところで燻られたら、また自分のせいになる。少しでも自分の背負う負担を軽くしたがったのだ。

 期待を潰した、と揶揄されるか。その期待をより対比し引き立たせる、穢れとなるか。

 結果、信之は後者を選んだのだ。

「――信之」

「……風の噂には、どんな犯罪者も受け入れてくれる、そんな新興宗教があるらしいぜ。英雄と敵対こそすれど……才のない俺にはその道しかない。いつか敵対するだろうが……そん時は兄貴だろうと容赦なく殺す。だから――」

 あたりの血を両手で掬い、自分の髪を乱暴に掻き上げ、オールバックに。頭部から血が滴る中、信之の涙と混じっていく。信之の立つ血だまりと、信玄の立つただのフローリング。今まで近かった二人の空間を、くっきりと断絶するようであった。

「――せいぜい、強くなれよ。俺という糧がいたことを、忘れんなよ」

 静かに、包丁を向ける信之。その手の震えは、一切ない。恐怖心、迷い。そんなマイナスの感情など一切感じられない、覚悟を背負った男の顔をしていた。

 机の上に置かれた、信玄の荷物。衣類以外に、両親の預金を全て詰め込んでいた。憎む存在へ送る、最後の贈り物であった。目線だけでそれを持ち出すよう指示すると、彼は全てを察しボストンバッグを持ち、静かに家を飛び出していった。

 その目に、うっすらと涙を浮かべながら。


 乱暴に送り出した信之は、包丁を力なく下げると、リビングと隣室の、両親の寝室へ視線も首も向くことなく語り掛ける。

「――これで、良いんだろ。教祖サマ」

 陰から現れたのは、『教会』の教祖。フードを目深に被ってはいたものの、それでもわかるほどに見目麗しい女の姿をしていたが、不器用な家族の在り方を静かに笑ったのだ。

「……面白いね。自分の兄に嫉妬しながら、成長を願うなんて」

「――弱いまんまで俺に殺されんのも、双方得無いだろ。俺は手ごたえ無し、相手は無力。そんな殺し合い……何も面白くないだろ?」

 覚悟はとうに決まった信之は、その教祖が差しだす手を握る。それは暗に、『教会』への入信を決めた証でもある。あるいは、長への忠誠を誓う証なのかもしれない。

 それ故に、力が多少強くなっていたのだ。

「あら、女性の扱いは慣れてないのかな、握る力が少々強いんじゃあないかな? 女性経験はない?」

「この年で経験ある方が可笑しいだろ?」

 影へ沈んでいく二人。そこにあったのは、闇に堕ちる覚悟の表れ。兄をいつか殺す、そんな歪みを胸中に宿しながら。

 その日、『森信之』は表舞台の名簿から存在が無くなり、行方不明扱い。森家の両親は、見るも無残な姿となって自宅にて発見。信玄は重要参考人として名前が挙がったが、死亡時刻のアリバイが証明できたため不問。

 森家の二人の息子は、その時に初めて真逆の道を歩み始めたのだった。


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