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第百五十九話

 河本は、貫かれた一瞬。全てを許し、一切悔やまなかったのだ。

 他と比べ平凡な自分に、出来ることはあるのだろうか。将来、大したことを成せなかった自分は、その時満足に笑えるのだろうか。そう考え、学園長に直談判したのだ。自身が、『教会』のスパイとして潜入することを認めてほしい、と。

 その際、信一郎はちゃんとした見返り、明確にするとしたら、安定した将来の確約を保証することを約束し、口惜しくもその提案を飲んだ。

 最初に述べておくが、河本は自分が劣っていると錯覚しているが、そんなことはなかった。武器科のトップである人間や、下の学年のトップであるエヴァと比べると劣っているだけで、ずっとトップクラスであったのだ。

 トップを目指し続ける、そんな愚直な性格であったため。現状に常に不満を持っていたのだ。だからこその、工作員スパイとしての戦い。それを望んだのだ。

 実際、工作員として幾多もの痛苦を味わった。あることないことを疑われ、まるで昔あったような踏み絵を体験させられる、キリスト教信者の気持ちであった。

 故に、いつか勘違いされ、殺されたとしても、何の文句も言えない。自ら望んで戦地に赴いているのにも拘らず、テロ組織に捕まって自分が危険な目に遭ったからと言って、「助けてほしい」と叫ぶような、中途半端なジャーナリズムを持った、そんなみっともない人間にはなりたくないと。

 『教会』に潜入している中で、明確に殺しなどの汚れ仕事は行わなかったものの、事務作業を中心として行った結果、戦闘員よりも圧倒的に層の薄い、競争率の低い場所で輝いたのだ。その実直な性格から、その時は京都支部の支部長であった、待田の側近として配属が決定したのだ。待田との付き合いは、そこから始まったのだった。

 しかし、何と待田はすぐに河本の裏切り……もとい、スパイ行為に感づいたのだ。それにより、河本は死を覚悟したものの、それを許した。


(――別に、知られたからと言って殺すほどのことじゃあねえ。俺ァそこまで器の小せェ男じゃあねえからよ。その代わり……茶、良いの淹れてくれ。それでチャラ、ってことにしておくさ)


 たった、その一言。力と度量の差を知ったのと同時に、河本は待田を信頼するきっかけとなった。どんなことがあろうと、待田を傷つけたくはないと。

 そこからは、怒涛の日々であった。待田の仕事人としての殺しの数々を裏でサポートし、『罪人殺し』の待田をサポートした。表の舞台で裁けない悪を、待田と協力し裁いていった。

 その行為を善とは絶対に捉えはしなかったが、悪とも捉えずにいた。工作員とはいえ、自分のやっている行いはいつだってグレー。そう思いながら、罪悪感に心を痛めながら日々を過ごしていった。

 そして、茨城支部の新興により、待田は興味本位で河本と共に茨城支部へ出向。昨日から始まった合同演習会の『教会』サイドの一員として、戦いを見守っていた。

 そして、礼安と出会ったのだ。英雄サイドで、最も常軌を逸した存在。多くの英雄が戦わずに切り抜ける方法を探すほどの猛者である待田に、食って掛かった唯一の存在。そんな彼女の底なしの勇気に、報いるべきだと考えて独断で動いたのだ。

 待田もきっと、このタイミングこそ、河本が古巣に戻るべきタイミングだと考えたのだろう。特に何を言うでもなく、あの小瓶に全ての思いを乗せたのだ。

 河本は、最後は英雄として、武器として死にたい。そう考えていたがために、嬉しかったのだ。しかるべきタイミングで戻れた、今の自分を褒め称えたのだ。

 大して何かを成したわけでもなく、『教会』側の情報をある程度流していた、まるで映画のような、スパイとして生きた一年間。その間の濃密な思い出と、英雄や武器たちと接した二年間。それらを天秤にかけたら、恐らく均衡状態となる。

 不思議と笑む河本。倒れ伏すほんの数秒の間に、これまでの人生の走馬灯が過る中、不思議と「楽しかった」という感想が脳内に浮かぶほどに、満足していたのだった。


 胸に巨大な風穴を開けた、瀕死の河本を乱暴に蹴り飛ばし、信之の元へ転がす成田。

「あと残るは貴方だけです! 降伏を提案しますが、如何でしょう? そこの裏切り者に別れを告げるくらいの時間は差し上げますので、その間に考えて下さい!」

 信之は、深紅に染まった河本を抱き抱える。

「河本さん!! 河本さん!! しっかりしてください!!」

 揺さぶる信之であったが、目の輝きも消えうせ、喀血し消え入りそうな呼吸音が聞こえるばかり。先ほどまで笑いあっていた彼女が、数秒後突然として息を引き取る。運命や人生のいたずら、というのを、ここまで恨んだことはなかった。

「――のぶ、ゆき――――く、ん」

 ノイズがかかる視界一杯に広がる、信之の顔面。涙と絶望でぐじゃぐじゃになった、様々な事象が折り重なり、多くの血縁関係者を手にかけた悲しき存在が、少し前まで赤の他人だったはずの人間の死に目に遭い、涙を流すことに成長を覚えた。

 血がとめどなく溢れていく中で、急激に寒気を覚えていた。今までは、ちゃんとした人間の体温を保っていたのにも拘らず、とめどなく命の温かさが溢れていく。辺りに零れ満ちていく無常さが、とても寂しく思えた。これが、この世から離脱していく感覚なのか、と。

 これが、裏切り者だと錯覚された人間の惨めな最期か、と。

 河本は、体温が消えうせ、弱弱しくなってしまった血だらけの手で、信之の頬を撫でる。

 信之の頬に、多量の血が付着しようと。本人は何も言わない。ただ、その命の結末を悲しみながらも見守るのみ。

「――わた、し、さ。――――き、みなら……がんば――れる、って……しんじ――てる、から……さ。――わ――たしなんか、のた……めに、なか……ないで」

「何バカなこと言ってるんスか!! 生きてここを出るんスよ!!」

 信之自身も、そんなこと出来っこない、叶いっこないと思っていた。しかし、少しでも生きることに希望を持たせるために、どれほど叶わない願いであろうと、口にすることで少しでも実現できそうな雰囲気を持たせたかったのだ。

 しかし、河本は緩慢に首を横に振る。自分のことは自分がよく理解している、そう言いたげに、笑って見せたのだ。笑えないほどの痛み、恐怖が体中を汚染しているのにも拘らず、終始信之のことを気にかけていたのだ。

「――――ぁ、おく、り――もの」

 まるで死ぬ直前とは思えないほどに、河本最後の全力を振り絞り、信之の顔を引き寄せた。そこでしたのは、信之へのキス。頬や額ではなく、口へのもの。河本自身のファースト・キスを、死に際で信之へと捧げたのだ。

 そこに温かみは無く、嬉しさも無く。ただ血の味が広がるキス。しかし、マイナスなものは一切感じさせず。死にゆく人間が残す、最後の願い。それがそのキスに現れていたのだ。

「――――この、たた……かいに――――かっ、てよ――――の……ぶゆき、くん」

 その言葉を最期に、河本の手は力なく落ち。静かな笑みを湛えた相好のまま。河本美浦は命を落としたのだ。

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