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第18話 噂

「あ、ごめんなさい。なんだか、田中さん、面白いな、って」

「へええ。逆に生真面目とはよく言われるのですが。というか、あなた、笑顔もとてもいいんですねえ。なんか、本当に癒し系だな。今時珍しいタイプですね」

「そうでしょうか? 自分ではよくわかりません……でも、マナトさんの周りって褒め上手な方が多いですね」

「ん? どうしてです?」

「ご本人もそうですしお父様の会長や田中さんまで……」

「それはあなたがそもそも賞賛に値する人格なのだと思いますが」

「いえいえ、私、普段そんなに褒められませんよ」

「噂通り、奥ゆかしいですね」

「それ、どこの噂ですか!?」


 前の職場は女性が多かったし、男性に人柄や性格を評価されることなく生きてきた。

 だから、褒められる事に慣れておらず、無駄にもじもじしてしまう。

 そして田中さんはこう言った。


「あいつ、あなたのことをとても楽しそうに話してたんですよ。あいつが女性について話すなんて初めてだったから、もしかして、好きなのかなと一瞬思いました」


 心臓がありえないぐらいドキッとした。


「えっ、そ、そ、そ、そ、そんな」


 私は驚きと戸惑いに、変な動きをしてしまい、机に肘を思いっきり当ててしまった。


「いたっ」

「大丈夫ですか? 絵に描いたような動揺っぷりですね」

「は、はい、すみません」

「まあ、そういうわけで、あいつもとうとう恋をしたのかと思ったわけですよ」

「あああああっ」


 今度は違う方の肘をぶつけてしまった。


「なんか……すいません」


 田中さんは痛ましそうな目で言った。


「いえ、こちらこそ」


 頭を下げながら、私はたった今言われた言葉を反芻する。


 恋。


 それは私にとって特別な言葉。

 ただの一度も、恋らしきものに触れたことのない私には、夢のように遠い憧れで、でもいつか、絶対に経験したいものだった。

 そして、バーでマナトさんと交わした、特別な話題でもある。


 交際相手への必須条件が「恋心」。

 そのこだわりを捨てられなかったために、ある意味一つの縁を、躊躇なく捨てた。

 以来、別な意味でも「恋」は特別なワードになっている。あの時それにこだわらなかったら、どんな現在になっていただろう。

 私にとっては運命を変えた言葉なのだ。


「落ち着いて聞いてくださいね。いいですか?」

「は、はい」

「僕は最初にマナトからあなたの話を聞いた時、遅い初恋かなとまで思ったんです」


 どきん、と心臓が大きく跳ねる。

 しかし、流石に3度目なので動揺を動きで表すのは必死に耐えた。


 初恋。


 バーで「付き合うなら恋心が欲しい」と言った私に、マナトさんは唖然としていた。

 恋のときめきやドキドキとは無縁の人なのかも、と一瞬で感じた。

 吟味するような視線も感じたから、そこは間違いないと思う。商品を見定める目だった。

 恋みたいな曖昧なものではなく、必要かどうかで交際相手を選ぶのだろう。

 うちの兄とは真逆なタイプだ。

 奴はチャラチャラしているけれど、薄くて短い恋ならしょっちゅうしている。

 目の前の女性にぞっこんになっている。だから大したイケメンでもないのに、しょっちゅう女性と付き合えるのだ。

 兄はその恋心が長続きしないのが最大の難点。

 マナトさんは「外付けパーツ」で考える人だから、2人を足して割ればちょうどいいのかも。


 そしてチャラ男の兄を見ているにも関わらず、私は恋に夢を見ている。

 兄なんかとは違う深くて長い一途な恋を、運命の人と交わしてみたい。

 そして、末永く幸せに……。


 私の幼い憧れが、マナトさんにも伝わったのなら。

 もしかしたら、彼も外付けパーツじゃなくて、必要か不要かじゃなくて、ちゃんと恋をしてみようと思ってくれているのかも……。


 ご都合主義な希望的観測は田中さんの冷めきった声に断ち切られた。


「だから恋愛対象じゃないと知ってびっくりしたんです。え、そうなの? って」


 一気に現実へ引き戻される。


 んん?

 今、田中さん、何て言いました?


 恋愛対象じゃない、って、何故今この時点で言い切れるのでしょう!?

 彼とマナトさんは親友である。

 何かの折に「あ、新しい秘書は女としては見てないから。そこのとこよろしく」みたいな話をしたって事?

 どうしてそんな事をわざわざ???


「まあ、あいつらしいとも思いますけどね」


 え?


 何がどうあいつらしいの?


 いや、文句が言いたいわけではないんだけれど、断じてそれはないのだけれど!

 でもでも、違和感しかない。だって……未来なんか……誰にもまだわからないわけで……。


「あの、田中さん」


 問い詰めようとした時、噂の彼の声がした。


「君ね、うちの大事な秘書に気安くちょっかいをかけないでくれるかな」


 よく響くバリトン。いつの間にかマナトさんが私たちの目の前に立っていた。


(何てタイミングなの……?)


 私は思わず、幽霊に出会ったかのように激しく肩をすくめてしまう。

 ちょうどマナトさんへの疑念が浮かんでいた事もあり、悪さを見つかったような気まずさがあった。

 それに、田中さんに肝心なことを聞きそびれていた。

 そしてもう聞き直す勇気はない。


「みかりん。俺以外の男とイチャイチャしたらだめだよ」


 マナトさんは私をたしなめるが、当然、本気で言っているわけもなく、対応に困る。


「あの、その、すみません」

「へえ。みかりんって言うんだ。僕もそう呼ぼうかな」

「だめ。ああ、もうやっぱり二人の会話は禁止するわ。お前、絶対狙ってるだろ」


にらみ合う二人。

ふざけ合っているのだろうけれど、ドキドキしてしまう。


(ああ、やっぱり明子に面白く会話を回すテクニックを習おう)


 今は無理だ。ただひたすら、2人の間でおろおろするしかない。

 マナトさんは、まるで、私の視界から田中さんを消し去りたいとでも言うような態度で目の前に立ちふさがる。


「男女の会話を禁止するなんて……新社長は前社長以上に封建的ですね」


 田中さんがわざとらしい敬語で明らかな反撃を仕掛けている。


「うちの秘書は魅力的だから、俺のガードが必要なの」

「部下の交友関係にまで口を出すなんて過干渉すぎじゃないですか?」

「初日でナンパするお前が悪い」


 マナトさんは私に早口で言う。


「この男はね、大人しそうな顔をして手が早いんだよ。一番気を付けないといけないタイプ」

「俺はお前みたいに余裕がないの。黙ってても女は寄ってこないの」

「あ、認めたな」

「言葉のあやだよ」


 2人の煽りあいはエスカレートして行く。

 おろおろしていたのは最初だけで……。


(なんだかんだ、とっても仲良しって感じだなあ)


 途中からは、安心して見られるようになっていた。


「俺は朝倉さんに挨拶しただけ。どんな子なんだろうと思ったけど、すごく良い子だった」


 どうやら煽り芸は終わったらしく、田中さんは立ち上がる。


「当たり前だ。あげないよ」


 マナトさんはへの字口でそう言った。

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