社長室に入るとマナトさんは素早くリモコンスイッチを押しブラインドを下ろした。
外からの視線を遮断して、後ろ手に鍵をカチャリとかける。
その目は……奇妙にぎらついていた。
例えるならば……獲物を狙う肉食動物の目だ。でも、その獲物って……一体どこに?
マナトさんの表情から意味不明な凄みさえ感じ、私はさらにタジタジになる。明らかに不穏な空気だがどうすることもできない。
「あの、私、何かしましたか?」
後ずさりながら私は尋ねた。
マナトさんは逃さまいとするようにその動きについてくる。
「うん。したよ。『やめて』って色っぽい声で言ったでしょ」
とん、と背中に壁がついた。追い詰められた私の視界を彼の姿が埋め尽くした。
(こ、これは俗に言う……いや、まさか)
マナトさんの片手がのばされて、後ろの壁にものすごい勢いで打ちつけられる。
勘違いではなく明らかな壁ドン。どうしよう。私は今、悪魔のように美しい人に壁ドンされています!
「その顔、ちゃんと覚えてるよね? ね、もう一回言ってみて」
「な、何を……」
「やめて、って。でないとお仕置きするよ」
「やめて……?」
「そう。いい子だ。従順なんだね」
色っぽい上目遣い。彼の香りが濃くなった。つられて心臓がドキドキする。
やっぱりいつものモードと違う。何かのスイッチが入ったとしか思えない。
「もう一回」
「……や……めて」
「それそれ。ああ、ゾクゾクする」
なぜかマナトさんは恍惚とした表情を浮かべた。
「え?」
意外な反応に私はマジマジと彼の顔を見返した。
「君の声は俺の体を疼かせる。今、頭の中でリフレインしてるんだけど……ああ、たまらない。官能的だ」
「か、かん」
「完納じゃないよ。わかってると思うけど」
マナトさんは目を細めた。
「君はね、無意識に俺を挑発してるんだよ。初めて出会った頃からね」
「そ、そんな……違います!」
「ふふっ。そりゃ否定するよね。無自覚なんだもん」
「それは……」
「参っちゃうよね。こんなの俺も初めてだし。君のそばにいると、いつもの俺じゃいられなくなる。嫉妬なんて……一生経験しないと思ってた。神に選ばれし存在のこの俺が、ほんと、君には惑わされっぱなしだ」
マナトさんは謎のような言葉を吐きながら、更に距離を縮めてきた。
至近距離に彼の美貌が迫っている。
「みかりん」
甘い声で囁かれる。
「はい……」
「そろそろ無自覚ビームの責任を取って。でないと俺、爆発するからね?」
「そ、そんな……」
全身の血液が顔へと上がっていくのがわかる。
マナトさんの目に映る私は、きっとゆでだこみたいに真っ赤になっているはずだ。
その証拠に、頬だけでなく耳たぶや額のあたりまで熱くなっている。
無自覚ビーム。そんなものを私は放ってしまっていたの?
心当たりは1つだけ、ある。
挑発なんてした覚えはないけれど、変な妄想をしていたのは事実だ。
神聖なオフィスで彼との初夜を想像した私。
よこしまな妄想のせいでごく自然に艶っぽい声が出てしまったのかも……。
「あれはマナトさんに言ったんじゃなくて……いや、マナトさんなんだけど、このマナトさんじゃなくて別なマナトさんだというか」
しどろもどろに弁明を開始。
「ん? どういうこと? もっと詳しく」
マナトさんが興味深そうに首を傾げる。
詳しくなんて……絶対に無理だ。
職場で何を妄想しているんだ、って軽蔑される未来しか見えない。
「とにかく、もう、二度としませんから……」
私は目線を下に向けた。
罪悪感で、彼の顔がまともに見られなかった。
と、顎を指でくい、と持ち上げられた。
どきん、と心臓がさっきよりもさらに大きく跳ね上がる。
壁ドンと顎くいの二連発。
これがお仕置きと言うのなら……効きまくりである。
酸欠になりそうなほど、息が苦しい。
「もう……許してください」
叱られるのが怖くて上目遣いに彼を見ると、彼の表情が一気に和らいだ。顎をつまんでいた手が壁へと移り、私は彼の両腕に閉じ込められることになる。
マナトさんはうなだれ「またやられた……無自覚ビーム……」そんなことをつぶやいている。
柔らかな髪が私の頬に当たっている。柑橘系の頃の香りが鼻腔をくすぐり、新しい感覚にドキドキした。
距離が近い。
体のまだどこも触れ合ってはいないけれど、もうほんの少し手を伸ばせば抱きしめられるほどの距離である。
男性とのスキンシップに乏しい私としてはどう振る舞っていいのやら正解が全くわからない。
こんなこと明子にも聞けないし、私はどうすればいいのだろう。
「あの、マナトさん?」
私の声は震えていた。
彼はゆっくりと顔を上げる。
「君も少しはドキドキしてる?」
少し不安そうな声で囁かれた。さっきまでライオンを前にしていたはずが、いつの間にか子犬に変わっていたような変貌ぶりである。
「はい……もちろんです……」
君も、って……。
今ドキドキしてるのは私だけじゃないってこと?
縮こまっていたハートが少しだけ元気を取り戻す。
「マナトさん!」
私は彼の名前を呼んだ。
「ん?」
「妄想が伝わってしまったんですね。ごめんなさい。もう二度としませんから!」
「ん? 何のこと?」
マナトさんは不思議そうな表情を浮かべた。
「私の声がどうとかおっしゃってたじゃないですか」
「別に頭の中まで覗いたわけじゃないよ。声が色っぽかったって言ってるだけ」
「えっ」
それでは一体……。
瞬きもできないほどの緊張で、私はマナトさんを見つめていた。
「何か妄想してたわけ?」
ニコニコ顔のマナトさん。
「き、聞かないでください」
私は咄嗟に顔をそむけた。
「え、めちゃくちゃ知りたいんだけど」
「そんなことよりも、責められている理由を教えてもらえますか?」
私はまっすぐに彼を見あげた。
昔から誰かに迷惑をかけたり、万が一にも傷つけたりするのがとても苦手な性格である。
もし無意識にマナトさんを変な感じに煽っているとしたら、とっとと指摘されてこの不安から解放されたかった。
マナトさんは目を細めた。
「君は存在が罪なんだよ。可愛すぎて」
「そう言うのではなく……」
私は半分泣きそうになりながら、少しだけ声のボリュームをあげる。
「遠回しじゃなくズバリ言ってください……直しますから!」
私は自他共に認める自己改革大好き人間だ。
直すべきポイントはさっさと聞いて、改善すべきだろう。
「キラキラな目をしちゃって……はああっ。君って本当に鈍感なんだね」
マナトさんは溜息をついた。