社長室に入るとマナトさんはジャケットを脱いだ。
私はそれを受け取りながら、声をかける。
「引き継ぎお疲れ様でした」
「うん。まあ、大したことはしてないけどね。みかりんもお疲れ様」
なんだろう。
声に元気がない気がする。
「あの、僭越ながら何かありました?」
私は思い切って尋ねてみた。
「んー。そうだね。さっきの君たちの話を聞いててさ」
ハッとした。
「あの、どこから聞かれていましたか?」
「ミスマッチがどうとかのあたりかな」
マナトさんはけだるそうにソファに座った。
座面をトントンと叩かれて、招かれていると知る。
「失礼します」
私は隣に腰かけた。
そして早々に頭を下げる。
「すみません。可哀そうなんて言ってしまって……まさか聞かれているとは思ってもいませんでした」
マナトさんは男性で、立派な人で、同情なんて絶対にされたくないだろう。
「いや、そこではなく……」
マナトさんは私をじっと見た。
「君は俺をよくわかってくれてる。ずっとそうやって、他人のいいとこ探しをしてきたんだろうな。そういうところ、とても好きだよ。だけど、その反面、鈍感で勘違いも多くて読み間違えている部分もある。とんでもなく激しくね」
(この目、またモードが変わった)
肉食動物の目だ。心臓がどくどくと早鐘を打つ。
「高校時代につきあってた女の子たちの、きっと誰も、俺は愛さなかったよ。だから彼女たちが俺を恨むのは当然だ」
マナトさんは言った。
「それは……マナトさんが優しいからそう思ってあげているだけで……」
「みかりん。俺は彼女たちを愛さなかった。愛そうとはしていたよ。でも、今振り返ってみるとわかるんだ。運命の相手は一瞬でわかる」
意味深な目つきで見つめられ、私の鼓動はさらに早まる。
「勝手に決めつけてしまって申し訳ございません。次から気を付けますね」
謝罪して立ち上がろうとしたが、手首を握られ、強引に戻されてしまった。
温かい手の感触。心の底からドキドキする。
「話はまだ終わってない。みかりん。俺が何にこだわってるか……何に傷ついてるか全然わかってないよね」
「はい……」
そう言いながらも、マナトさんの態度から、確かに尋常じゃない様子はひしひしと伝わってくる。
「教えてあげる。俺の特別扱いを、その意味を……」
マナトさんはネクタイの結び目に指を入れた。
第一ボタンが外され、綺麗な鎖骨と男っぽい喉仏に、つい見入ってしまう。
「誰でもいいわけじゃないんだ」
何故か語尾が甘く掠れた色っぽい声でマナトさんは囁く。
そして至近距離まで顔を近づけてきた。
この距離はおかしい。変だ。自分でもわかっているのだけれど……。
私が使った言葉の何かで、確実に彼を傷つけてしまったという、深い罪悪感が警戒心を鈍らせている。
「目を閉じて……」
そう言われて、私は素直に従った。
吸血鬼に魅入られた処女が唯々諾々と魔物の指示に従うみたいに、私の体は甘く痺れて頭の中も弛緩していてうまく全然回らない。
「君は本当に可愛い。可愛すぎる」
彼の吐息が唇に触れ、私はハッと我に返った。
至近距離にある彼の顔。
「好きだ」
色っぽい目で囁かれる。
もう何度となく言われた言葉。その度に「私も」と答えてきた。
でも……。
やっと頭の中に危険信号が点滅を始める。
ダメだ。多分ここは彼を押しのけて逃げるべき。
「乗ってみない? 玉の輿。案外乗り心地いいかもよ?」
からかうような声。しかしその目の奥は真剣そのもので。
ただでさえ、騒がしい心臓が大変な事になっている。
「や……だめ……」
背中を逸らして彼と一定の距離を取ろうとするが、後頭部を手のひらでサポートされ、引き寄せられた。
ハッとしてもがく間もなく唇が重なる。電流が走ったような、凄まじい刺激が背筋を駆け抜けていく。
両眼を開けたまま受けるキス。意外にも温かい唇の感触に、心臓が早鐘を打ち始める。
キスなんて初めてで……。どうやって息をすればいいのかわからない。
至近距離にある彼のまぶたが閉じられていて……慌てて真似する。
お互いに口の形が小さいからか、ぴったりと重ね合わされる唇に、ただひたすらドキド
キしていた。
「君の唇、甘くて美味しい……もっと全部欲しくなる」
一瞬だけ唇を離しそれだけ言うとまた重ねてくる。
今度はさっきのより深い。舌が口腔へと差し込まれて、もう全身がとろけそう。
経験のない私でも、はっきりわかる。
彼のキスは極上だ。
テクニック以上に優しさを感じる。手の動きや唇の感触で。
あまりもの気持ちよさに体から力が抜けていく。
マナトさんは後頭部に添えた己のてのひらに力をかけ、私の顔を上向かせる。キスは深まり、歯列を割って入ってきた舌が口腔をなぞる。
何を気持ちよくなってるの……。こんなこと、許してはダメなのに。
マナトさんは仕事とプライベートを分ける人。
それなのに。
胸の内の葛藤とは裏腹に、いつしか私はうっとりと、口腔をまさぐる肉厚な舌に自分の
舌を絡めていた。