そして数時間後。
仕事を終え、私はシェアルームのリビングにいた。
夕食を終えてまったりタイム。
出勤前の明子が、眉根を寄せる。
「無視しようかと思ったんだけど、やっぱり言うわ。あんたね。さっきから何ため息ばかりついてんの? すごくわざとらしいんだけど」
ここぞとばかりに私は身を乗り出した。
「忙しいのにごめんね。実は相談したい事があるの。恋愛マスターの明子様に!」
明子は呆れたような表情を浮かべる。
「……察してムーブなんてしなくても、あんたになら何だって教えるわよ」
「本当に!? では早速。これは私の友達の話なんだけど」
たちまち明子は憐れむような眼差しになった。
「友達を隠れ蓑にして自分の相談するのってテンプレよね。私とあんたの仲なのにさ、本当にまだるっこしいったら」
「ち、違う。違うの……そうじゃなくて」
「まあ、いいわよ。言い訳聞くのも面倒だからその設定でどうぞ」
「ありがとう。ごめんね。忙しいのに」
私は膝に置いた手を思いっきり突っ張りながら彼女を見た。
「改めて、これは友達の話なんだけど」
「はいはい」
「キスした後にさ、相手が、間違えた、って言ったらしいのよ。それ、どういう意味だと思う?」
正直恋バナなんて初めてで……。
声が緊張と不安に上ずってしまった。いい歳してるくせに、と自分でも突っ込みを入れたくなる。
(どっちにしても絶対に明子にはバレちゃったな。私自身の話だってこと……)
嘘をつくのは苦手だけど、マナトさんの立場を考えて頑張ってみた。
だけど無駄な努力に終わりそう。
ところが……。
明子はきょとんとした表情を浮かべた。
「あら、本当に友達の話なのね。建前なのかと思ったら」
意外にも信じた!
逆に不安だ。
「えっ? どうして?」
「だって、それってチャラ男のセリフじゃない。あなたが誰かにそんな事を言われるなんてあり得ないもの」
うううう。
微妙にグサッときた。
解説するとこういうこと。
明子は私の価値を信じてくれている。誰からも大切にされるべき存在だと思いこんでいるのだ。
だから、このエピソードを聞いて、「あ、みかりの体験談じゃないわ」とあっさり結論付けたのだろう。
私を高く見積もってくれているのだ。
なんとありがたい事だろう。光栄だ。
本当に嬉しい……のだけれど……!
実は、あったのだよ。そのあり得ない出来事が。
だから複雑な気持ちになってしまう。これって、やっぱり、最悪なセリフなんだよね?
「まあ、その友達には言いにくいけどさ、本気のキスじゃなかった、ってことでしょ。残念だけど、遊ばれちゃったね」
(そんな!)
あまりにもバッサリ言われてしまった。
それでも現実を受け止められない私は思わず明子にすがりついてしまう。
「どうしてそう思うの? 決めつけるのは良くないと思うなあ」
「いやいや、女の唇を奪っておいて、間違えたなんて死罪でしょ。舐めてんのよ」
つまり私は遊びの相手……。
いやいやいや!
マナトさんに限ってそんなことは!
「男の人って言葉足らずじゃない? 何か別なことが言いたかったんじゃ……」
「少なくとも本命には絶対に使わないセリフよ」
きっぱりと言われ、ますます複雑な気持ちになった。
「まあ、空気に飲まれたってことよ。男ってすぐにスイッチ入って、事が終わると別人になるじゃない。あれよ。あー、みかりは男を知らないからピンとこないかもだけど」
いや……そうでもないんだな。
私はうなだれる。
「なんとなくわかるよ……ずっと兄を見てたもの……耳年増っぽくて嫌なんだけど」
ポワポワと、私の頭の中に兄のメモリーが浮かび上がる。
「みかりー。お兄ちゃんはな、やっと真実の愛を見つけたよ」
新しい彼女ができる度に、兄は私にそうノロケた。
しかし熱は数日で冷める。
「お兄ちゃん。スマホ鳴ってるよ」
「知ってるー」
「どうして出ないの?」
「どうせ文句言われるだけだもん。元カノだから」
「聞いてあげれば?」
「やだよ。面倒くさい」
「……真実の愛じゃなかったの?」
「あー、あれ、気のせいだったわ」
ピコピコとゲームに興じながら、鳴り続けるスマホを見ようともしない兄とは裏腹に、胸をきりりと痛めていた私。
スマホの向こう側には、泣いている女の子がきっといるのに……。この男、鬼か。
あの兄とマナトさんが同じノリ?
(いやだ。信じたくないんだけど!)
「友達に言っといて。男なんて星の数ほどいるんだから、そんなチャラ男、とっとと見切りをつけなさい、って。じゃ、行ってきまーす」
「ありがとう。じゃね。いってらっしゃい!」
明子を見送った後、私はクッションを抱いたままソファにダイブした。
(チャラ男はダメ。明子の言う通りだわ……だけど、マナトさんは誠実な人だ。ブリキの木こり。冷たそうに見えてそうじゃない、心から優しい人だもの)
うん。チャラく手を出された可能性はない。
でも……。
だったらなぜ。間違ったなんて。あんな言葉を投げかけたの?
明日から私、どう振る舞えばいいんだろう……。
考えれば考えるほどわけがわからなくなって、私はクッションをぎゅっと強く抱きしめた。