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第30話 まるでそれは挨拶みたいに

 そして翌日。

 いつも通り規定の1時間前に出社して、花を生け替えたり部屋を整えたりして過ごす。

 優雅な朝。しかし私の内面は嵐だった。


 だって想像がつくのだもの。

 きっと彼は通常通り出社してくる。爽やかな、整い切ったルックスに悪魔のように特別製なオーラをまとって。

 間違ったキスへの罪悪感も、それによって生まれた気まずさも、覚えているのは私だけ。

 彼にとっては、ただの間違い。

 引きずるものなど、ないのだろうから。


(切ないなあ)


 彼の机を拭きながら虚しさと戦う。

 どうして私だけがこんな思いをしないといけないのだろう。

 ルール違反をしたのは彼なのに。ほんの少しでも、その罪を感じていてほしいのだけどな。

 間違いなんて言葉でごまかして、起きた事をなかったことにしないでほしかった。

 そうしたら……一瞬の迷いだったんだな、って許すから。


 朝のルーティンを終えて、廊下側の席につく。

 平常心平常心。

 言動の真意を問いただせない、臆病な私に出来る事は、業務に支障ないよう極力普通に過ごす事。

 それだけだった。

 と、靴音が聞こえてきて彼が現れた。姿を見た瞬間、ドキッとする。

 まあ、昨日の事がなかったとしても、無駄に心をざわめかせるオーラを持つ人だとは思う。


「おっと、みかりん。どう? 今日の俺」


 デスクより1メートルほど手前で、彼は両手を広げてポーズをとった。

 想定内の行動。

 私は笑顔でこう告げた。


「完璧です!」

「ふふっ。だよねえ」


 普段通りのマナトさん。

 想定内の振る舞いだとは言え半分はホッとし、半分は拍子抜けした。


(なかったことにされてしまったんだなあ)


 ファーストキスだったのに……。

 信じられないほどドキドキしたのに。

 私の方こそ夢だったのだと思い込みたい。

 しかしいくら忘れてしまいたいと思っても、唇には生々しく彼の感触が残っている。

 起きたことの全てがまだ、脳の襞に刻み付けられていた。


「おはようございます。今日も1日よろしくお願いします」


 想いを断ち切るため頭を下げる。

 今はマナトさんのノリに合わせよう。

 もう少し時間が経てば、ごく自然に平常心になれるから……。

 顔を上げた瞬間、にっこり笑顔のマナトさんと至近距離で目があった。


「えっ?」

「おはよう。みかりん。今日もすごく可愛いね」


 彼は、デスクに手をついて、私の顔を見つめている。


「あ、あ、あ、あ、ありがとうございます」


 想定外な態度をとられ、私は思わず上ずってしまう。


「ん? どうしたの? いつも以上に敏感な反応だね」


 彼が顔を近づけてきた。

 思わずのけぞる。


「褒められることに耐性がないんですっ」

「こらこら、嘘はいけないよ」


 満面の笑顔でマナトさんは言う。


「こんなに可愛いみかりんが、賞賛されないわけがない。それか謙遜してんのかな。奥ゆかしいね。ああ、もう何もかも愛おしい」


 マナトさんは至近距離に顔を近づけたまま、私の顎をくい、と持ち上げた。ぼ、っと頬に血が上る。


「本当に、褒められた事、ないですよ? 特にそんな……べた褒めみたいな感じのは、ないですっ」

「その言葉を信じるとしたら、神様が俺のために君をガードしてくれてたのかな。だって、ほら、普通だったらみかりん、彼氏の一人や二人いるでしょ」

「いえいえいえいえ、買い被りです」

「赤くなるのも可愛い。可愛いが渋滞しすぎてて俺、死にそうなんだけど」


 色っぽい目が私を見つめる。

 本当に、予想外の展開だ。

 いや、いつものノリと言えばそうなんだけど……。

 キス以前の軽やかな(チャラ男っぽいとも言う)コミュニケーションに戻ってる!

 昨日はあんなにそっけなかったのに……。

 キスの後、間違えた、って言った人ですよ? あなたは!

 落としてあげてのギャップ攻撃に頭の中がクラクラする。どう考えたらいいのか、私にはさっぱりわからない。


「ねえ、責任とってもらっていい?」


 人の気も知らないで、甘い声を投げかけてくる。


「えっ?」

「俺の心をかき乱した罪を償ってよ」


 償う?

 それはこっちのセリフなんですけど!

 昨日はこの状況からキスされた。同じ轍を踏まないためには、彼の体を押しのけて逃げるべき。わかっているのに……。


(か、体が動かない!)


 まるで蛇に睨まれた蛙みたいだ。逃げるどころか、私の体は昨日の刺激を思い出して弛緩している。

 あの甘くて切ないひと時がまた与えられるのかと思うと、体の芯が熱くなり、瞳が自然に潤んでしまう。

 苦しすぎて思わず目を閉じた。沈黙が続く。


(ん……?)


 何もリアクションがなくて、目を開ける。マナトさんと目があった。あっけないほどドキッとする。ああ、もう本当にどうしようもない。

 マナトさんは私をまじまじと見るとこう言った。


「みかりん、今すごく頑張ったでしょ。理性と本能のせめぎ合い……手に取るようにわかったよ」


 やっぱり余裕たっぷりな実況中継。

 絶対に彼の心拍数は通常モードだ。対して私は……異常モード。

 この苦境をなんとかしなきゃ。


「ここは……神聖なる仕事場で」


 震えながら私は言った。


「だね」


 マナトさんの表情はかわらない。


「真面目に仕事をする場所で……」

「うん。俺にとってもそう」

「だから……からかうのはやめてください」


 語尾が……震えてしまうが必死の思いでそう告げる。

 言いたい事も言うべきことも、言葉が見つからずに流してしまう私には、これでもかなり頑張ったほうだ。


「うっ。か、かわ……いい」


 マナトさんは小声で呻くと、こめかみに指をつけ俯いた。

 背中が小刻みに震えている。


「あの、マナトさん?」


 覗き込もうとしたら、右手のひらが差し出された。ストップのジェスチャー。


「じっとしてて。でないとダメだ。ムラムラしてきた」

「えっ?」


 悶絶……というのがぴったりな態度。

 しばらく経ってやっとマナトさんは体を起こした。


「はあっ。うん。よし。堪えた。危なかった」


 彼は今、何らかの危険を回避したらしい。

 確かにいつもより頬が赤らんでいる気がする。

 マジマジと見つめれば、それに応じるかのように、彼の目が山形に細められる。

 フレンドリーで優しくて、私を宝物のように見る、その目つき。

 こんな目で見つめられる経験は未だかつてなくて、戸惑うしかない。

 昨日の事を不問にしたうえで、平常心をと考えていたのに、こんなのは想定外。

 謎に糖度を増した彼の態度で、ドキドキが上乗せされてしまった。


「トマトみたいに真っ赤だね。考えてる事が駄々洩れなんだなあ」


 感心したようにマナトさんは言う。


「マナトさんだって……ちょっとほっぺたが赤いですよ」

「だから君のせいなんだって」


 ああ言えばこう言う。

 口論ではかなわない。


「もう、降参です」


 私は白旗を上げた。

 さっきから続けられるこの煽りが、キスと関係あるのかどうかはわからない。

 もしかしたらごまかされているのかも……。

 どちらにしても、これ以上こんなやり取りを続けられたら私の精神が崩壊してしまう。


「ごめんごめん。でも君が悪いんだよ。俺の心を無駄にかきたてるから、つい、ね。まあ、そろそろ許してあげようか。限界みたいだし」


 マナトさんはいたずらぽい目つきで言う。


「今からお願い1つだけ聞いてくれない? そしたら一旦構うのをやめるよ。すごくすごく苦しいけどね。みかりんを前に構わずにいるのは苦行に近い」


 後で考えたら、どこか理不尽な提案だったが、私には苦境から逃れるための蜘蛛の糸さながらだった。


「どうしたらいいんですか?」


 思わず食い気味に乗っかってしまう。

 マナトさんは指先で、自分の形のいい唇をとん、と叩いた。


「キス1つ」

「ええ。え?」

「キスさせてくれたら、許してあげる」


 彼の目が色っぽく細まる。


「やり方は、もう、わかってるでしょ?」


 ちょっと待って。あれは……。

 間違いだったんじゃなかったの?????


 そんなの無理ですと言おうとしたのに、マナトの顔が近づいてきて、唇が重なる。

 逃げを打つ体。しかし頬を挟み込むようにして阻まれた。許可なんて出してない。いや。出したの?

 触れるだけのキスだったけれど、離れる時に肉厚な舌が私の上唇をそっとなぞる。ドキドキが止まらない。甘い疼きが胸の中を駆け巡っている。


「ああ、元気100倍だな。じゃ、仕事始めよっか」


 満足そうな笑顔でそう言うと、マナトさんは社長室へと入っていく。


 私はへなへなと椅子へ崩れ落ちた。


(な、な、な、何! 今の!)


 挨拶のようにラフに施されるキス。重なる唇は燃えるように熱くて、私は当然のように、ドキドキしていて……。

 平常心なんて保てるわけがない。

 と、ドアが開き、マナトさんが体を半分出してニコッと笑う。


「何してんの? スケジュール教えて」

「あ、はい」


 私は慌てて机の上にスタンバイさせていた書類ばさみを手に取るとマナトさんの後を追った。



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