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第32話 私を見てた?

 ほてった体を冷やすために事務仕事に取り掛かる。

 だだだと高速タイピング。

 一息ついてちらりと社長室を見るとマナトさんとばっちり目があった。


(もしかしてずっと私を見てた? いや、まさかね)


 当然のように笑顔で片手を振ってくるマナトさん。

 仕事場で雇用主に手を振り返すのもおかしい気がして、私はドギマギしながら頭をぺこりと下げた。

 明子には、大企業の秘書たるもの、ユーモアを学べと言われている。

 しかし、修行の足らない私には、その程度のリアクションが精一杯。

 くくっとマナトさんが笑っているのがわかる。

 からかい行為は続いている……願い事1つでやめてくれるって言ったのに。

 その願い事は……触れるだけの軽いキス。思い出すと体の芯がたちまち熱くなってくる。

 あれに応じたのに……マナトさんの嘘つき。

 つい、恨めし気な視線になってしまうが、彼は私に視線を向けたままペロリと自分の下唇を舐めたりするからたまらない。

 色っぽい仕草。挑戦的な目。絶対にわざとだ。

 私を翻弄して楽しんでいる。

 でも何故?


 そんなに私の反応って面白い?


 天然とは言われるけれど、そういうおかしさを求められているわけではない気がする。

 体がますます熱くなりドキドキしながらマシンに向かう。



 緊張の中、午前の業務は終了。

 ビル内のレストランでランチをとる。

 店内は女性客が多く、ОLらしき集団が談笑しているのを見ると少し羨ましくなってきた。


(もし社内に相談できる相手がいたら……こんなに悩まずにすむのかな……)


 一瞬そんな事を思ってしまうが、すぐに贅沢ものめ、と気を引き締める。

 前職を首になった私が、五十嵐商事のような大手に就職できるなんて、奇跡なのだ。

 それに……。

 明子にすら事情を打ち明けられない私が、社内の人間にマナトさんとのあれこれを話せるわけがない。結局は隣の芝生だ。自分の機嫌は自分でとらねば。


 給湯室に手を洗っていた長い髪の女性が「あ、」と私を見て両目を見開く。

 綺麗な人だ。

 目はカラーコンタクトを入れているのか青く、巻き髪は途中からピンク色に染められている。

 オシャレでコケティッシュな印象で男の人にすごくモテそう。

 初めて見る顔だけれど、マナトさんと一緒に挨拶行脚したから、私の名前と顔を知っている人は多いと思う。


「こんにちは」


 先に笑顔で挨拶を。

 これでも五十嵐商事社長秘書なのだ。スキルが低い分、せめて感じよくしていようと、普段から気を付けていた。

 案の定、櫻井さんは私を知っていたらしく、上から下まで全身を舐めるような目で見ると、こう言った。


「あなた、秘書の朝倉さんよね? 会長のコネで五十嵐先輩の秘書に成りあがったって噂の」


 もしかして、親しくなれるかな、なんて淡い期待は、その一言で吹っ飛んだ。


「遠くで見た時もそう思ったけど近くで見るとますます地味ね。どうやって会長に取り入ったの?」


 唖然としている私に、彼女は値踏みするような目つきでたたみかけてくる。

 地味って…………褒め言葉じゃ絶対にないよね。

 心の機微に疎い私だけれど、ここまであからさまだとさすがに敵意に気づいてしまう。

 役不足だと言われているのだ。その通り過ぎてぐうの音も出ない。


「たまたまご一緒する機会がありまして……縁ですね」


 私は平和主義だ。

 他人を論破するのも、かと言ってただ言われっぱなしなのも趣味じゃない。

 不穏な空気に気づいたからには、さっさと会話を切り上げて立ち去ろうと決める。

 しかし、事はうまく運ばない。


「そうなんだ。いい機会だわ。一度あなたとはきっちり話をしたいと思ってたのよ」


 櫻井さんは腕組みをすると、洗面台に腰かけた。睨むような目つき。兄がらみで女性に詰め寄られる事は多かったが、それと似た空気を感じる。嫌な予感が頭をよぎった。

 ここでは平和に過ごしたいのに。


「それにしてもうまくやったわね。あの会長を攻略するなんて。五十嵐先輩、後継ぐの嫌がっていたから、大喜びだったでしょうし」


 櫻井さんは言った。


(ちょっとだけあってる。さすがは元同じ部内の後輩だわ)


「ええ。そうですね」


 笑顔で答える。

 面倒は起こしたくないから穏便にいきたい。


「あなた、大学はどこなの? 見た目で選ばれた可能性は0だから、よっぽど学歴がいいんでしょ」


 しかし相手はどう見ても戦闘モード。

 見た目が弱点だと把握されてしまったようですが、ごめんなさい。それでも私、戦う気、ないんです。なので素直に答えるしかない。


「いえ、それが……短大なんです。ごく普通の」


 櫻井さんは両目を丸くした。


「え……短大なんて社員でもほぼいないわよ……どういう事?」

「色々と巡り合わせと言いますか」

「マナーは学んでるの? 運転は? 英会話は当然出来るんでしょうね」

「いいえ……それが」


 なんとなくの流れで私は馬鹿正直に現状を語る。


「日常英会話も出来ない……? それでよく採用されたわね」

「お恥ずかしい限りです」


 私はますます身を縮めた。

 呆れられる、と思ったのに、何故だか櫻井さんは嬉し気に笑った。


「なんだ。あの先輩がご執心って聞いたから、どんなパーフェクトウーマンなのかと思ってたら……ただの雑魚じゃない。何を間違ってあなたなんかを傍においてるんだろうね」


 うわあ、ストレート!


 と思ったものの、図星な部分が多すぎて反論できない。

 しかし雑魚とまで言われては聞き流せない。あまりにもマナトさんが気の毒だ。私ではなくて。これは改善するべきだろう。私ではなくてマナトさんのために。

 そう。

 私は自分だけの事では頑張れない性分だ。

 こんな私でいい、とマナトさんは言ってくれている。

 私だけの事なら、たとえ何を言われても、嫌味ぬきで、おっしゃる通りです、で済ませたと思う。

 だけど、今の私は、ある意味五十嵐商事や、マナトさんという看板を背負って生きているのだ。つまり、雑魚のままではいられない。


「ちょ、ちょっと。何? あなた、目がらんらんとしていて怖いんだけど」


 櫻井さんに言われて、私はハッとした。

 明子にもよく言われる私の癖が発動したらしい。

 何かスイッチが入ると、目つきが変わり瞳の奥に炎のようなものが見えるらしい。


「すみません。新しい目標を前にして、少し燃えてきちゃいまして」


 私は拳を握りしめた。


「これからスキルアップします。マナトさんの秘書に相応しいと思っていただけるように……運転はしばらく任せてもらえそうにありませんから、まずは英会話から。小さなところからコツコツやります。凄く楽しくなってきました!! アドバイスありがとうございました」


 私は心から櫻井さんに感謝した。これくらいの刺激がないと私はずっとマナトさんに甘え、英会話を学ぼうとはしなかっただろう。

 ところが、櫻井さんはみるみる鬼のような表情になっていく。


「私をバカにしてるの!?」

「えっ? まさかそんな。何故ですか?」

「その口ぶりよ。前向きぶって、カウンターきいてないふりしてるんでしょ。他人を見下してるわ。一体何様?」


 私は本気で焦ってしまう。

 今の会話のどこに見下しが???


「むしろ、それは……」


 あなたではないでしょうか? と言いたくなるが、ぐっと堪える。

 だって、私を雑魚呼ばわりですよ? 見下してますよね……。

 ダメだ。そんな事を言ったらバトルになる。繰り返すが、論破は苦手。

 例え論争に勝ったとしても、相手を傷つけてしまった罪悪感でいたたまれなくなる。

 戦闘モードバリバリの相手からしたら、カモにしかならない。


「は? 何?」


 櫻井さんの顎が上がった。ドラマでよく見るヤンキーの表情だ。

 というか、これこそ、見下しのポーズでは???

 その気づきを思わず口にしそうになりハッとする。

 気をつけなきゃ。嫌味だと絶対に思われてしまう。

 櫻井さんは憎々し気にこう続けた。


「まあ、今に見てらっしゃい。あなたみたいに性格も見た目もスキルも悪い女なんて、そのうち放り出されるから。その時になって泣かないことね」


 放り出される……!


 私はハッとした。

 確かに櫻井さんの言う通りだ。

 一度首を経験している私である。

 追放というワードはメンタルに響く。


 もう、私自身が、彼女を見下していたかどうかなんて、どうでもいい。

 マナトさんのお役に立てるよう、追放なんてされぬよう、心を入れかえねば。


「はい! 気を付けます!」


 私はもう一度頭を下げた。


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