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第33話 走馬灯のように

 洗面所を出て社長室へと向かう。

 櫻井さんに煽られて、自分がどれほどマナトさんに甘えていたか否応なしに気づいてしまった。

 能天気にも程がある。つい数ヶ月前まで自分の事を崖っぷち女、なんて思っていたのに。


(明日からお昼休みに英会話の勉強をしよう)


 焦っていたのだと後になって思う。

 大股で歩いていた私は、階段に差し掛かっていたことに気が付けず……。


(あ、)


 足を踏み外した次の瞬間、私の体は空中にせり出していた。

 絶体絶命とは、この事だ、と、踊り場に向かってつんのめりながら私は思った。


(うわっ。どうしよう!!! 落ちる!!)


 階段は危険だ。兄がよく骨折していたから、普段は極力手すりを持ったり、段を目視したりしてこけないよう気を付けていた。

 まさか死にはしないだろうが、この体勢だと大怪我は免れない。

 命に係わる恐怖を感じてか、様々な思い出が走馬灯のように頭をよぎる。

 兄貴。前の会社の人たち。借金取り。両親。明子。

 最後に浮かんだのはマナトさんで……知り合って間もないのに、胸がきゅっと締め付けられとても切ない気分になる。

 彼に迷惑をかけてしまう。

 それだけじゃない。

 きっと彼は私を心配する。人の痛みがわかりすぎる……ブリキの木こりみたいな人だから。

 ごめんなさい……!

 もっと気を付けるべきだった。ケガするにしても、会社じゃないところでするべきだった!

 ぎゅっと目をつぶった時、誰かが私の腕を取り、強い力で引き戻された。


「えっ?」


 ぼすっと、私の顔が逞しい誰かの胸にぶつかって……助けられたのだと遅れて知る。

 顔は見えないのに……香りでわかった。

 その瞬間、鼻の奥がつん、とする。

 どうしてこの人はこんなにタイミングが完璧なんだろう。


「大丈夫、みかりん?」


 優しい……でも、いつもとは違う、シリアスな声に顔をあげた。

 やっぱりマナトさんだった。心配そうな眼差しが私に向けられている。

 ジャケットの上からでもわかるほど、鍛えられ隆起した胸が大きく波打っている。

 転びそうになった恐怖と、すぐに与えられた安堵で私の心臓も速度を速めていた。


「ええ。助けてくれてありがとうございます」


 そう言って背筋を伸ばそうとしたけれど、すぐに引き戻され、バランスを崩す。

 ダメだ。さっきより激しく抱きしめられてしまう。

 くぐもった声が鼓膜へと流れてきた。


「頼むから気をつけて……君が怪我なんかしたら、俺、病むよ」


 沁みるような切ない声。

 抱擁が激しくなる。


「はい……気を付けます」


 私はうなだれ、目を閉じた。

 彼があまりにも強い力で抱きしめるから……。逃げなきゃとわかっているのに、身をゆだねてしまった。誰かに見られたら、きっとただのスキャンダルじゃすまない。わかっているのに……。

 私のことを私以上に心配してくれる人がいるなんて……。

 申し訳なさと同じくらい、いや、それ以上に幸せを感じた。

 やっぱり私はこの人を信じて、もっと頑張るべきだ。

 首になるかも、なんて怯えるんじゃなくて。

 そんなの、全然気にしなくていいから、もっと、彼のために働きたい。


「あのマナトさん……私、いい秘書になります。あなたの役に立つ立派な秘書に」


 決意を込めてそう伝える。


「ありがとう。気持ちは嬉しい。でも、そんなの全然求めてない。みかりんは元気で長生きしてほしい」


 早口で囁かれ、心臓があり得ないくらいドキドキした。


「マナトさん」

「むしろ、それ以外は何も考えないで」


 絞りだすように切ない声に、私の胸はきゅんとする。

 この人は喪失が怖いのかもしれない……。

 はっきりとその声音で気づかされる。


「分かりました。本当に心配させてごめんなさい」


 私はおずおずと彼の背中に両手を回す。


「助けてくださってありがとうございます」

「うん」


 彼の顎が私の頭頂部に当たる。


「君が傷つくと俺も傷つく。そのことを忘れないでいてほしい」


 そんなことを言われて、心が動かない女がいるだろうか。

 うん。いないよね。

 胸がポカポカと暖かくなる。目尻が熱くなってきた。

 やっぱりこの人は私が想像した通りの人。

 人の痛みを、自分の事みたいに感じ取ってくれる人。


 ずっと兄のお世話をして生きていた気がする。

 チャラ男の尻拭いと言ってもいい。

 兄はいたわってくれなかった。

 彼はとても鈍感だから、私が誰かのケアをしている時、自分も同じように傷ついているなんて、想像したこともないのだろう。わかっていても、むなしかった。

 肉親がいても孤独だった。でも今は……。


「はい」


 泣きそうになって、私は彼の胸に顔をうずめた。

 コロンの香りに、胸がざわつく。

 と、マナトさんはひょいと私を横抱きにした。

 そのまますっと歩き出す。

 流石にこれはない。

 私は慌てて彼に訴えた。


「あの、おろしてください。誰かに見られたら」

「秘書が動揺して歩けなくなったと言えばいい」

「それ、嘘ですよね」

「俺は動揺して死にそうだったよ」

「だから、マナトさんですよね? 私じゃないからやっぱり嘘……」

「嘘でもいいから、俺の好きにさせて。今だけは、ね?」


 ぶっ飛んでるけど、優しいなあ。マナトさんは。

 もう、やっぱりどうしようもない。

 私は彼の首に両手を回した。


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