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第36話 英会話

 私はこの仕事が気に入っていた。長く働きたいと思っている。

 だからこそ、謎には一旦目をつむり、環境に順応したい。

 そう強く思っていた。雑念にとらわれてちゃだめだ。


 2人で手を合わせてお食事タイム。


「美味しい……」


 マナトさんは一つ一つのおかずを味わって食べてくれて、何度も美味しいと繰り返す。


「良かった……マナトさんはきっと美食に慣れていらっしゃるでしょうから、お口に合わないかも、と心配してたんです」

「うーん。確かに美食はそうかもね。でも、母が亡くなってるから、手作り弁当に縁はなくてさ」


 マナトさんはあっさり言った。


「そうだったんですか……」


 私の声に、同情するような色を見たのだろう。

 マナトさんは慌てたように付け加える。


「いや、学校には栄養士つきの食堂があったし、行事ごとにはシェフがすごいのを作ってくれてたよ。三段重ねの幕の内弁当とかね。美味しかったよ。何よりゴージャスだ。皆に羨ましがられたなあ。五十嵐家に生まれたのはレアチケットを配られたようなもんなんだ、ってその度に思わされた」


 マナトさんは私を真っすぐに見る。


「でも、今日君が作ってくれたみたいな、素朴な優しい味のするお弁当は……初めてだった。ありがとう。本当に感動したよ」


 暗い影なんてちっとも感じられないさばけた口ぶり。

 だけど、どうしても……想像してしまう。

 子供の頃のマナトさんは、お母様に作ってもらったお弁当が、食べたかったんじゃないかなって。寂しい気持ちを押し殺していたんじゃないかな、って。

 だからこんなに喜んでくれてるんじゃないかな、って。

 子供の頃のマナトさんにはもう会えない。

 でも、今のマナトさんには、毎日会える。それって、凄い事だ。幸せな事だ。

 今のマナトさんには、触れる事も声をかける事も、励ます事も、なんだって出来るのだから……。

 彼の力になれたら。

 小さな事でも、ほんの少しでも、彼に喜びを与えられたら……私は嬉しい。


「よかったら、毎日作ってきてもいいでしょうか?」


 おずおずと提案する私に、マナトさんはにっこり笑ってこう言った。


「頼もうかと思ってた。よろしくお願いします」



 食事を終えて社長室へ戻り、ソファに座ってコーヒータイム。

 マナトさんの定位置は私の隣りだ。

 最初は戸惑っていたけれど、流石に慣れた。とはいえ、距離の近さにはドキドキする。

 今も膝がぶつかっていて……実はその事に意識のほとんどをもっていかれているのだけれど、当然内緒だ。マナトさんが冷静なだけに、そんな事でドキドキしてるなんて気づかれたくない。


「それにしてもなんで急にお弁当を?」


 マナトさんに聞かれて、私はざっくりと説明をした。

 今後は英会話の練習を習慣化させる。そのために昼休みを有効活用したいのだ、と。


「仕事のためなら無理しなくていいのに……」


 マナトさんはどこか不満そうだった。


「あ、いえ、それだけが理由じゃないです」


 私は明子の、語学はコミュニケーションツールだという話を伝えた。


「確かに英語ができれば海外の友達ができる……素敵だなあと思いまして」


 ほとんど明子からの受け売り。

 マナトさんは「へえ」と言うと、腕組みをした。

 あ、この感じ。

 やっぱり何か物申したいモードな気がする。


「海外の友達ねえ。みかりん、そんなに外向的だったんだ」

「そういうわけでもないんですが……」


 マナトさんのお役に立ちたいから、とは言えなくて私は言葉を濁す。


「じゃあさ、俺が手伝ってあげる」


 何故だかマナトさんはにっこりと、どこか胡散臭い笑みを浮かべた。


「え、そ、そんな。マナトさん、お忙しいのに」

「君のためなら、なんだってするよ。英会話教室なんかに通われ出したら困るからね」

「どうしてですか?」

「金髪の悪い虫がつきそうだから。駆除する時間がもったいない」

「虫?」

「青い目のボーイフレンドだよ」

「えっ。でも、コミュニケーションですよ? 普通にそれはあるのでは?」

「みかりんは人を疑わないからすぐに騙されて捨てられるよ」

「決めつけ……! 大丈夫です。私そんなにモテませんから」

「はっ。また出たよ。みかりんの天然」


 いきなりマナトさんはペラペラと英語をしゃべった。


「え?」


 私は目をパチパチと瞬かせる。


「君ってすごく可愛いのに全然気がついてないねって言ったの」


 さらっと訳され、顔がぼっと赤くなる。やたらと胸がドキドキする。

 マナトさんはさらに続ける。


「I want to be with you」

「えっ。あの、もしかしてレッスン始まってます?」

「そうだよ。意味わかった?」

「ごめんなさい。本当に私、基礎力なくて!」


 ……と言う感じで逃げたけれど、本当は察していた。


(私と一緒にいたい……って事よね。他意はないんだろうけど)


 マナトさんの、キラキラ光る美しい瞳に見つめながら言われたら、何か特別な意味があるような気がして、ドキドキする。


「もっと簡単な会話から始めた方がいいかもね」


 マナトさんは言った。


「そうですね」


 私は照れ隠しに、中学校1年生で習う英文法を、だだっと喋ってみた。


「うーん。そんなのより、もっと刺激的なフレーズの方が覚えやすいと思うよ。例えば、I LOVE YOU とかね」


 にっこり笑顔のマナトさん。

 うん。これはからかっていますね。


「ありがとうございます。さすがにそれは知ってますよ? レッスンになりません」

「いいから、ほら、言ってみて」


 ためらう私を、マナトさんは軽く睨む。


「この俺がマンツーマンレッスンをしてあげてるんだよ。ノリが悪いなあ」

「すみません」

「これは社長命令。さあ、言って」


 英会話のことなんて言わなければよかった、と後悔したけれどもう遅い。


「えっと……I love you?」


 ぎこちなく言うと、マナトさんは小さく笑って首を振った。


「発音はいいけど気持ちがこもってないな。お手本を見せてあげる」


 マナトさんの手が、私の肩に回って引き寄せられる。


「あ、あのっ」

「こういうのは雰囲気が何よりも大事なんだよ」


 マナトさんはそう言うと、肩を抱いたまま私に向き直った。

 私の目をしっかりと見る。唇にはかすかに笑みが浮かんではいるけれど、とても真剣に見える表情だ。

 もう何度目かのキスで、近距離で見つめられることには慣れていた……なんて嘘。

 信じられないぐらいドキドキしている。

 私はこの数日で寿命が何日間か縮んだと思う。


「I love you」


 感情がたっぷりのって聞こえる声で、マナトさんは囁きかけてきた。


「わわわ、ごめんなさい。マナトさん……私、恥ずかしくて、これ以上は無理っ」


 顔を赤くしながら私は熱い視線から逃れようと、首を左右に振った。


「だめだよ。ちゃんと君も言って。俺の真似をしたらいいんだから簡単でしょ?」

「ですから、もう、許してください」

「うっ」


 マナトさんは絶句した。


「みかりんは、俺の扱い方を分かってきてるよね。その上目遣い……クラクラする。でも、ダメだ。今回は許さない。言わないと、キスよりもっとすごいことするかも」


 キスよりもっとすごいこと……!?

 想像を超えた、甘い脅迫に、私の心臓は鼓動を早める。


「語学はコミュニケーションツールでしょ。ちゃんと心をこめなくちゃ」

「I love you……こう……ですか?」


 ドキドキしながら、言ってみる。

 マナトさんの目がまた山形に細まる。


「うん。可愛い。でも、明らかに言わされてるよね。もっと能動的に言ってみて」


 なんだか、操られている気がしてならないけれど……。

 どこか本気の指導にも思えて、リアクションに困る。

 こうなったら、ちゃんとするまで、マナトさんは私を解放しないだろう。

 覚悟を決めた。




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