ざわ……
一瞬にして飲み会の空気が変わった。さっきまでの和やかな喧騒が嘘のように、皆の視線がマナトさんに釘付けになる。まるで大きな磁石を背負っているみたい……ついそう思ってしまう吸引力。
(……本当に注目を浴びちゃう人だなあ……)
私は心の中でそう呟く。
リラックスした飲み会に突然社長が現れたのだから、メンバーが驚くのは当然のこと。社長であり御曹司。立派すぎる肩書きを背負ったマナトさんは、加えて神に選ばれし存在と自負している。
とはいえ、ほんの数ヶ月前まで、ここにいる人たちと同じ、一般社員だったはず。
でも、そんな一般論、マナトさんにだけは通じない。
彼に向けられている憧れや畏怖の視線には、立場の違いだけでは説明できない特別な物があるような気がした。
「な……俺たち、社長の悪口なんて言ってないよな?」
「ぎ、ギリ、セーフだと思う……! たぶん……でも、わかんない……!」
隣のテーブルでは、木村さんと村上さんが顔面蒼白になっている。酔ってたし! 覚えてないし! と互い記憶を辿っているようだ。
同期の山田さんは……どこかへ消えた。
そんな彼らに気づいたのか、マナトさんは、「そうだ」と軽やかに席を立ち再び私たちの背後へ戻ってきた。
そして胡散臭い笑顔を浮かべて話しかけてくる。
「君たち、うちの秘書と、仲良くしてくれてありがとうね」
「ひ、ひゃいっ!」
二人揃って両目を見開き、裏返った奇妙な返事をする。
(そ、そんなに怯えなくても……ありがとうって、脅しじゃないし……)
私はごくりと唾を飲み込みながら、心の中で彼らを励ます。
「――ただし」
ふっと、マナトさんの声のトーンが変わる。
「変な構い方したら……容赦はしないよ。僕はね、宝物に手を出されるの、我慢できないんだ。ましてや傷なんかつけられた日には……うん。歯止めが効かなくなりそう。ってわけで、心しておいてね」
笑顔の、これは脅迫だと、鈍感な私にすらわかってしまう。でも、どうして?
「はっ! も、申し訳ありません! 心いたします!」
「肝に銘じますっ! ゆめゆめ忘れませんっ」
同じ解釈に至ったらしく、さっきまで青ざめていた二人は、今度は弾かれたように背筋を伸ばし、敬礼でもしそうな勢いだ。
「じゃ、また」
マナトさんは満足気に戻っていく。
二人は大きな溜め息をつき、
「見ましたか、今の社長の目……」
「完全に『俺の女に手を出すな』って書いてあったぞ……」
「逆らったらクビ、下手したら左遷っすね……」
「命大事にいこうぜ、マジで……」
などと、神妙に囁き合っている。
村上さんに至っては、あからさまに腰を浮かせて物理的に私から数センチの距離を取った。
……そこまで!?
(いや、でも、さっきのはゾクッとした……底知れぬ圧を感じたかも……)
理由はどうあれ、とりあえず、男性社員たちからの過剰な気遣いや、女性だからという理由で持ち上げられる雰囲気はなくなったので、結果オーライと思うことにした。
やっと普通に息ができる。
「『俺の物』……ねえ。そんなセリフがさらりと言える男なんて、やっぱり敵だ。気障ったらしいにも程がある。…………まあ、あいつが言うと、様になっちまうんですけどね」
田中さんが、やれやれといった表情でため息をつく。
なんだかんだ言いつつもマナトさんを認めているような口ぶりに、私は思わずクスッと笑ってしまった。
「ん? どうかしましたか?」
「あ、いえ、ごめんなさい。田中さんだけはマナトさんのこと、ちっとも怖がらないんだなあって、改めて思って……」
なんだかほっこりしてしまったのだ。私にとって、マナトさんは尊敬する大切なボスだから。
「まあ、伊達に長い付き合いじゃありませんからね。ムカつくことは日常茶飯事ですが、怖いと思ったことは一度もないですよ」
田中さんがグラスを傾けながら、小さく笑った。
「しかし、彼にも弱点があったとは。スパイをやりきるには我慢が足りない。ふっ。人間味があっていいですね」
「た、田中さん! やっぱり気づいてたんですか!? マナトさんが来てたこと!」
私は思わず前のめりになる。
「ええ、まあ。あのオーラは後ろ姿でも隠せませんし、しょっちゅう振り返ってはこっちの様子をちらちら窺ってましたからね。バレバレですよ」
「やっぱり偶然じゃなかったんだ……」
他の人に聞こえないよう、小声でつぶやく。
「当然でしょう。わざわざ変装までして、あとをつけてきたんですから」
つけてきた、と言うことは……。
「私を見張るために……?」
「十中八九、そうでしょうね」
田中さんはさらにこう続ける。
「あなたに何かを学ばせるために、あえて泳がせるつもりだったのでは。我慢できずに失敗したようですが」
「お、泳がせる!?」
「言葉で言い聞かせるより経験させる方が、早く本質にたどり着く。彼はそう思ったんでしょう。とはいえ、心配でたまらない、と。まあ、私の推理だとそんな感じですね」
社内での会話を思い出す。
飲み会参加に反対だったマナトさん。
男は全員狼だとか、独身者と会うのは許可制にするとか。
箱入り娘扱いで私を束縛しまくっていた。
「心当たりがあるようですね」
田中さんに言われて私は頷く。
「ええ……」
「保護者の気分なんだろうなあ」
「よっぽど頼りなく見えるんでしょうね……私……もういい大人なのに……」
がっくりと肩を落とす私に、田中さんは優しい声で言った。
「あいつにとってあなたは、生まれて初めて自分の意志で手に入れた、かけがえのない『宝物』なんでしょう。誰かに盗られたり、傷つけられたりしたらどうしようって、不安でたまらなくなるのは、当然の心理ですよ。それだけ、大切に想われている証拠です」
田中さんは、ふっと柔らかく微笑んだ。
「正直、あいつが羨ましいです。滅多にない事ですから」
(確かに、田中さんの言う通り、これは特別で、素敵な事なんだ)
さっき、マナトさんが二人の前で「俺の宝物だから」と言った時、感じたのは驚きや戸惑いだけじゃなかった。
心の奥底からじわじわと込み上げてくるような、温かく切ない喜びに胸の奥がきゅうっと甘く締め付けられた。
でも…………。
そんな感情のすぐそばに、微かな不安の影が寄り添っている。
初めてキスされた時、彼が放った「間違えた」という一言。
そして、イガさんと田中さんが口を揃えて言っていた、「彼に限って、社内恋愛は絶対にない」という言葉。
この二つの事実が、どうしても棘のように頭の片隅に引っかかっている。
束縛されるなら……仕事仲間としてではなく、もっと甘ずっぱい理由が欲しい、なんて。
こんな風に願ってしまう私は、やっぱり世間知らずな箱入り娘なのかも。