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第43話 混乱

(やっぱり、私が作ったとは誰も思ってないんだ……)


 少しだけ、ほんの少しだけ、寂しいような、もどかしいような気持ちが胸をよぎる。

 そんな私の心中を察したのか、田中さんが小声で話しかけてきた。


「手作り弁当かあ。朝から大変ですね、朝倉さん」


 まるで決定事項のように、あっさりと私に話を振ってくる。ここで否定しても不自然だし、マナトさんがああ言ってくれた後だ。私は小さく頷いた。


「いえ……自分のも作るので、ついでですから……。ただ、衛生管理は大切ですね。もっと気をつけないと……」


 不安を口にすると、田中さんは私の心配を一蹴するように、にっこり笑った。


「いやいや、気持ちが一番ですよ。あいつ、何でも手に入る環境で育ったから、誰かに手間をかけてもらう経験って少ないんです。すごく嬉しかったと思いますよ。顔を見ればわかります」


 田中さんがそう言い切ってくれたおかげで、私は心の底からほっとした。マナトさんが喜んでくれている。それだけで、私の不安は綺麗に消え去っていった。

 その時だった。


「あのっ!」


 凛とした、少し甲高い女性の声が響き渡り、私と田中さんは同時にそちらへ視線を向けた。

 マナトさんの隣にいる女性だった。彼女は少し頬を赤らめながらも、真っ直ぐにマナトさんを見つめている。


「率直にお伺いします。五十嵐社長は、どんな女性がタイプなんですか?」


 開放的な雰囲気も手伝ってか、なんとも大胆な質問が繰り出され、ざわざわしていた店内が、水を打ったように静まり返った。女子社員たちはもちろん、意外にも男子社員たちまでもが、固唾を飲んでマナトさんの答えを待っている。


「チャラっと笑ってはぐらかす、に一票」


 田中さんが呟く。


「彼は本当にそういうの、語らないんですよ。俺にさえ言わない事をこんなところで言うわけがない」

(確かに直球すぎて苦手かも)


 私も内心同意する。

 ところが、予想はあっさりと裏切られた。マナトさんは少しもためらうことなく、さらりとこう告げたのだ。


「そうだね……優しくて、ちょっと天然で、苦労を乗り越えてきた人かな。あと、一生懸命頑張ってる、健気な子が好きだね」


 そう言って、悪戯っぽく笑うと、彼は、まっすぐ私の方に視線を向けた。

 このタイミングでの意味深な視線に、私の心臓がドキン、と大きく跳ねる。


(え……? ど、どういう意味……?)


 頭が真っ白になりかける。まさか、私のこと……?

 いや、そんなはずはない。自意識過剰だ。でも、彼の言葉はあまりにも……。


「わー、具体的! それって、もしかして……今、好きな人、いらっしゃるんですか?」


 マナトさんの周りにいた女性たちが、一斉に色めきたつ。興奮したような声があちこちから上がる。

 その瞬間、さっきから胸の中にあったモヤモヤとした霧のようなものが、急速に濃度を増していくのを感じた。焦りのような不安のような息苦しい感情。この感情が何なのか、自分でもよくわからない。けれど確かな予感があった。彼の答えによっては、私はきっと深く傷つく。その予感が私を焦らせていた。


(聞いちゃだめ……聞きたくない……!)


 私は必死に意識を彼からそらそうとした。グラスに残ったビールに視線を落とし、テーブルの木目を数えようとする。けれど、たった2メートルほどしか離れていないのだ。

 この狭い空間では、意識を逸らしたくらいでは、彼の言葉の直撃を免れることなんてできなくて…………。


「うん、いるよ。まあ、片想いだけどね」


 悪びれる様子もなく、むしろ少し楽しむかのように、さらりと告げられたその言葉を、私の耳は、はっきりと、残酷なほどクリアにキャッチしてしまった。


「えええええーーーーっ!!」


 会場中に女の子たちの驚きと興奮が入り混じった、今日一番の黄色い悲鳴が響き渡った。


(片想い……………………)


 ズキン、と心臓が物理的に痛んだような気がした。まるで、冷たい針で突き刺されたような、鋭い痛み。もちろん、彼に特定の彼女がいないことは、田中さんから聞いて知っていた。でも……「好きな人」は、いたなんて。

 自分が予想以上に、そしてとてつもなく深くショックを受けているという事実に、私は愕然とした。なぜ? ただの上司と秘書の関係なのに。どうしてこんなに胸が痛むの?


「苦労人、ね。うん、なんか、わかる気がするなあ」


 田中さんが一人、しみじみと頷いている。何をどう納得したのか、問い質したい衝動に駆られたが、声が出なかった。

 脳裏に、数日前の社長室での出来事が鮮やかに蘇る。

 強引なキス。そして、壊れ物を扱うかのような優しい抱擁。

 私にとっては、何もかもが初めてのことだった。

 壁ドンされて、顎クイされて……まるで乙女ゲームの主人公にでもなったかのような、非現実的なシチュエーション。翻弄されて、されるがままだった。

 そして、唇を重ねられた瞬間……心臓が止まるかと思うほどドキドキした。

 彼の薄い唇の、熱い感触は、今でもはっきりと覚えている。蕩けるように甘くて、優しいキスだった。

 それなのに…………。

 好きな人が、別にいるなんて。

 さっきまでの幸福感が嘘のように、黒いモヤモヤが胸いっぱいに広がっていく。苦しくて、息が詰まりそうだ。

 男の人って、みんな、こういうものなの? 好きな人がいても、他の人にキスしたりできるの?

 混乱と、裏切られたような気持ちと、そして、どうしようもない悲しみが、私の中で渦巻いていた。

 そして、その好きな相手が、決して私ではないという残酷な証拠に、この場の誰も私の方に水を向けてくることはない。私が彼の「好きな人」である可能性なんて、数パーセントどころか、ゼロだと確信しているからだ。好きなタイプは、期待したけど、今この瞬間に片想いされてるかもなんて、そこまで己惚れる事はできなかった。



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