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第44話 ハプニング

 衝撃をどうにか抑えようと、私は目の前にあった自分のグラスを掴み、残っていたビールを一気に飲み干してしまった。喉を通る冷たい液体が、熱くなった体を少しだけ冷ましてくれる気がした。

 と、その時だった。


「ひっく」


 突然、自分の意志とは関係なく、喉の奥から奇妙な音が漏れた。


「ひっく……ひっく」

「ん?」


 隣の田中さんが、怪訝そうな顔で私の顔を覗き込む。


「あ、ごめんなさ…………ひっく!」


 まずい。しゃっくりが止まらなくなってしまった。しかも、かなり大きな音で、断続的に続いている。

 私は羞恥心で顔がカッと熱くなるのを感じながら、慌ててもう一度ビールを少し飲んでみたり、口元にハンカチを当てたりして、何とか止めようと奮闘する。けれど、しゃっくりは一向に収まる気配がない。むしろ、意識すればするほど、ひどくなっているような気さえする。


「おお、大丈夫ですか?」

「あら、苦しそうですねえ」


 田中さんや、近くにいた社員たちが心配そうに声をかけてくれるが、しゃっくりは止まらない。胸のあたりが圧迫されるようで、だんだん息苦しくなってきた。


(だめだ、ここでは止められない……!)


 このまま注目を浴び続けるのは耐えられない。


「ちょ、ちょっと、し、ひっく、失礼……ひっく……しますっ!」


 限界を感じた私は、半ばパニックになりながらよろよろと席を立ち上がった。洗面所で水を飲んだりして対処しようと思ったのだ。

 肩を小刻みに震わせながら、私は足早に出入り口へと向かう。しゃっくりは相変わらず続いていて辛いけれど、正直なところ、あの場から一時的にでも退出できたのは、少しだけラッキーだったかもしれない。

 マナトさんのリアルタイム進行形な恋バナなんて、とてもじゃないけど、これ以上聞いていられなかった。


(過去の恋愛話なら……むしろ、ちょっとくらいは知りたい、なんて思っちゃうんだけどな……)


 彼にキスされてから、感情のアップダウンが激しすぎる。嬉しくなったり、不安になったり、そして今はこんなに落ち込んだり……。

 ダメだなあ、私。しっかりしなきゃ。仕事に支障が出たら大変だ。早く気持ちを立て直さないと…………。


「ひっく」


 止まらないしゃっくりに翻弄されつつ、頭の中でぐるぐるとそんなことを考え込んでいたら、不意に、「わっ!」という大声と共に、とん、とかなり強めに背中を押されつんのめる。


「ひゃっ!」


 予期せぬ出来事に、私は驚きのあまり間抜けな悲鳴をあげて、文字通り飛び上がってしまった。心臓が口から飛び出しそうになる。

 恐る恐る振り向くと、そこには、悪戯が成功した子供のように、爽やかな笑顔を浮かべたマナトさんが立っていた。その顔を見た瞬間、さっきまで胸の中に渦巻いていた黒いモヤモヤや、深いショック、悲しみが、嘘みたいにどこかへ吹き飛んで、代わりにじわじわと温かい喜びが溢れてくるのを感じた。これは何? イケメンは浄化の魔法が使えるの?


「昔から言うでしょ? しゃっくりってびっくりすると治るって」


 彼は楽しそうに言いながら、私の顔を覗き込む。なんと、あの少し離れた席から、私の苦境にちゃんと気づいてくれていたらしい。ますます頭の霧がはれていく。


「あ、ありがとう……ございます……ひっく」


 しかし、彼の浄化魔法もしゃっくりに効果はなかったようだ。


「あらら、タイミングをミスったかな」


 マナトさんは残念そうに眉をひそめる。


「すみませ……ひっく……こんな時に……」

「うーん、作戦Aは失敗か。じゃあ、作戦Bだ。ちょっとだけ待ってて」


 そう言うと、マナトさんはスタスタと厨房の方へと向かっていく。

 すぐに「すみません、ちょっとお水とお椀を……」と、お店の人に話しかけている声が聞こえてきた。


(作戦Bって何だろう……?)


 しゃっくりをしながら待っていると、やがてマナトさんはお椀の載った小さなトレイを手に戻ってきた。お椀の中には、水らしき透明な液体がなみなみと入っている。


「作戦B。反対側の縁から水を飲む。聞いたことない?」


 マナトさんは真顔で私に尋ねてきた。


「い、いえ、初めて聞きました……ひっく」

「まあ、試してみる価値はあると思うよ。それにしても、ほんと辛そうだね。ここじゃ、邪魔になりそうだから、下に行こうか」


 彼は目と首の動きだけで、ついておいで、と促す。


「は、ひゃい」


 私はまだ「ひっく、ひっく」と肩を揺らしながらも、彼の優しい指示に従った。


 お店の階段を下り、玄関近くにある木製の長椅子まで来ると、マナトさんは私をそこに座らせた。そして、トレイを椅子の端にそっと置き、水の入ったお椀を私に手渡した。


「ほら、ここから飲んでみて」


 マナトさんが指差したのは、私の口から一番遠い方の縁だった。どうやら、これも昔ながらの民間療法的なやり方で、私のしゃっくりを止めようとしてくれているらしい。


(こんなことまでしてくれるなんて……)


 彼の優しさが身に染みる。私は言われた通り、体を前に屈め、お椀を傾けて不自然な体勢で水を飲もうと試みた。その間にも、肩がひくひくと痙攣している。

 一口、二口と、ゆっくり飲んでいると、「だめだめ。もっと一気に、できれば全部飲み干して」とマナトさんから指示が飛ぶ。

 しゃっくりはまだ継続中だ。飲みづらさとしゃっくりの発作で苦労しながらも、私はなんとかお椀の水をすべて飲み干した。


 空になったお椀は、すぐに彼の大きな手に取り上げられる。

「どう? 止まった?」


 間近から、綺麗な顔が私の顔をじっと覗き込んできた。長いまつ毛に縁どられた、吸い込まれそうな瞳。


「ん……?」


 何がどうなのか、一瞬ピンとこなかった。彼の顔があまりにも近くて、ドキドキしてしまって、それどころじゃないというのが本音である。


「だから、しゃっくりだよ。止まった?」


 マナトさんが、私の反応を見て、少し可笑しそうに繰り返す。


「あ……」


 そうか。そのための、あの飲みにくい体勢での水飲みだったのだ。私は自分の胸のあたりに意識を集中させ、しばらく様子を窺った。

 シーン…………。

 さっきまで一定間隔で起きていた、あの不快な痙攣が起こらない。

 私は驚いて目を見開いた。


「止まってる……! 本当に効くんですね、この方法! すごい! ありがとうございます!」

「よかった。いや、見ててすごく苦しそうだったからさ。心配したよ」


 マナトさんは、まるで自分のことのように嬉しそうに、ニコニコと満面の笑みを浮かべている。私なんかの、たかがしゃっくりのために、わざわざ席を立って行動してくれた。その事実が、私の胸の奥をキュンと締め付けた。


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