「本当に、ありがとうございます。助かりました」
私は改めて、小さく頭を下げた。すると、マナトさんは悪戯っぽい目をしながら、優しげな口調で告げる。
「どういたしまして。でも、君はしゃっくり一つとっても、キュートだね。まるで、小さな天使が独り言を言ってるみたいだったよ。レアなところが見られて嬉しかった」
もうすっかり通常モード。
「て、天使だなんて……! からかわないでください」
「からかってないよ、本気。……まあ、俺以外の男も見てるわけだから、ますます気が抜けないけどね」
真剣な表情になるマナトさん。
「あの、もしかして私を見張るためにここに来たんですか? 自惚れかな、とは思うんですけどなんだか、そんな気がして……」
思わず尋ねると、マナトさんは呆れたように、でもどこか嬉しそうに言った。
「当たり前だろう? 他にどんな理由があるって言うんだ。俺が、柄にもなく変装までして、呼ばれてもない飲み会に潜入する理由が」
「たまには息抜きがしたかった、とか」
「誘われたいのに誘われないからいじけて物陰で見ていたって言うの?」
「……違いますよね」
「はは、みかりんって時々、本気で言ってるのか冗談なのか分からないくらい、天然だよね。まあ、そこがたまらなく可愛くて、俺を夢中にさせるんだけど」
マナトさんは、ふっと息を吐きながら、熱っぽい視線で私を見つめてくる。この言い方。いつものように、からかわれているのか、本気で口説かれているのか、今一つ判別がつかない、ぬるっとした独特の口ぶり。
でも、不思議と嫌な気はしない。むしろ、こういう曖昧な距離感に、心地よさすら感じ始めている自分がいる。本当は早く席に戻って、彼も他の人たちとの親睦を深めるべきなのだろう。それは分かっているけれど、私はこのまま、もう少しだけ、マナトさんの隣にいたいと思ってしまった。この特別な時間に、浸っていたい、と。
「それにしてもさ、さっきの君、ずいぶんモテてたじゃない。これで少しは分かったでしょ。俺があれほど心配していたのが、ただの杞憂じゃなかったってことが」
マナトさんは、少し拗ねたような口調でそんなことを言い始めた。
「心配……?」
「そうだよ。君は自分がどれだけ魅力的か、全然分かってないから。だから、あんな風に無防備に男たちの輪に入っていく。見ていてヒヤヒヤしたよ」
「そんな……皆さん、親切な方ばかりでしたよ。五十嵐商事の人たちが、みんな女性に優しいってことだけは、よくわかりましたけど」
私は少しむきになって言い返す。
「まあ、そういうことにしておいてあげるよ。でも、俺以外の男に、あんな可愛い笑顔、あんまり見せないでほしいんだけどな。独り占めしていたいから」
独り言のように呟かれた言葉は、私の耳にはっきりと届いた。
(え……?)
今の、本気? それとも、また冗談?
「そ、それを言ったら、マナトさんこそ、さっきすごく注目されてましたよ。女性社員に囲まれて」
私は動揺を隠すように、話を逸らした。
「ああ、あれね。まあ、俺は神に選ばれしイケメンCEOだからね。会社の広告塔として、そこそこは注目を浴びておかないと」
マナトさんは、わざとらしく胸を張って見せる。
「ええ、本当に、王子様みたいでした」
私は心の底からの称賛を告げる。彼は少し寂し気に呟いた。
「でも、あんなの、全然欲しくないんだ」
「え?」
「俺が本当に欲しい注目は、たった一人からだけでいい」
じっと、私の瞳の奥を見つめながら、マナトさんは謎めいた言葉を吐く。その真剣な眼差しに、心臓がまた大きく音を立てる。
(たった一人って……誰のこと……?)
まさか、さっき言っていた「好きな人」のことだろうか。
「あの……さっきおっしゃってた、好きな人って…………」
気が付くと、そんな言葉が勝手に口をついていた。聞きたいような、聞きたくないような、複雑な気持ちで。
「ん?」
優しい目が、私の顔をじっと覗き込む。その瞳に吸い込まれそうで、私は慌てて視線を逸らした。
「い、いえ! 何でもないです! 忘れてください!」
さっき彼が「片想いしている」と言っていた、その人のこと。聞いた瞬間、激しいショックと痛みが胸の中を駆け巡ったことなんて、やっぱり恥ずかしくて言えるはずがない。
「そろそろ、席に戻らないと……皆さんに心配されてるかもしれません」
私は無理やり平静を装って、立ち上がろうとした。
「そだね。変に勘繰られても面倒だし」
意外なほどあっさりと、マナトさんは受け入れてくれる。少しだけ、がっかりしている自分がいた。
「じゃ、また後でね。みかりん」
そう言って微笑むマナトさんの「また後で」という言葉は、きっと明日、会社で会う時のことだろうけれど……。
たった一晩、次に会うまでの時間が、今は果てしなく長く、遠く感じてしまうのが、自分でもとても不思議だった。