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第46話 ナンパ

 それから30分ほどが過ぎ、賑やかだった一次会はお開きの時間を迎えた。ぞろぞろと社員たちが席を立ち、会計を済ませていく。

 二次会は、近くのカラオケボックスに行く流れになっているようだった。当然のように、マナトさんも皆から誘われている。その輪の中心で、笑顔で応対している彼を横目に見ながら、私も隣にいた木村さんに声をかけられた。


「朝倉さんはどうされます?」

「行きますよね!!」


 一次会ですっかり出来上がって、顔を真っ赤にした村井さんが、大きな声で私に話しかけてきた。他のメンバーも、当然私が行くものと思っているような顔をしている。


「お誘いありがとうございます。でも、今回はこれで失礼させていただきますね」


 私はにっこりと微笑んで、丁寧にお断りした。親睦はもう十分すぎるほど深まったと思う。これ以上ここにいても、マナトさんの「好きな人」の話を思い出して、また落ち込んでしまいそうだ。度重なる感情のアップダウンに私は少々疲れていた。

 ちらりとマナトさんの方に視線を向ける。彼もこちらを見ているような気がしたが、目が合うことはなかった。本当なら、一言挨拶をして帰るべきなのかもしれない。けれど、今、彼に声をかけたら、引き止められてしまうような、そんな予感がした。それに楽しそうな雰囲気に水を差してもいけない。


「それでは、皆さん、お先に失礼しますね。お疲れ様でした」


 私は田中さんや木村さんたちに改めて挨拶をすると、軽く会釈をした。


 夜風が少しひんやりと感じる。酔いを醒ますにはちょうどいいかもしれない。私はタクシー乗り場を目指して、少し早足で歩き出した。


(マナトさん、二次会、行ったのかな……)


 多分行ったのだろう。

 久しぶりの飲み会っぽくて、皆とっても喜んでたし。


 ふいに、胸の奥から寂しさがこみ上げてくる。私もそうしていたら、もっと彼と一緒にいられたのに。会社に行けば、いつでも会える。それは事実だけれど、そこはあくまでも仕事場だ。今日みたいに、お酒が入って少しリラックスしたマナトさんと話せる機会は滅多にない。ラフな格好の彼もレアだった。

 それに……。

 無駄にやきもきしなくて済む。

 女性たちにまた囲まれてないか、また何か気になる発言をしていないか、今も気になって仕方ない。

 誰かと仲良く話し込んでいる彼を想像すると、切ないほど胸が痛んだ。さっきはもう、見たくないと思ったのに。私の心は矛盾だらけだ。


(なんだろう。この気持ち)


 わかってる。胸がちくちくする感情は、嫉妬だ。

 でも、その理由は?

 どうしてこんなに切ないの?

 浮気しちゃだめだ、とマナトさんに何度も言われた。

 あの時の彼は、もしかしたら、今の私と同じような感情を抱いていたのだろうか。私は何もわかってなかった。自分の気持ちも、彼の気持ちも。


 そんなことを考えながら、少し俯き加減に歩いていると、突然、誰かにトントン、と肩を叩かれた。


(マナトさん……?)


 淡い期待と共に、私は勢いよく振り返った。

 しかし、そこに立っていたのは、期待していた彼ではなく、いかにも酔っ払いといった風情の見知らぬ中年のおじさんだった。年は50代くらいだろうか。よれよれのスーツを着て、にやにやと品のない笑みを浮かべている。知り合い……ではない。ただの酔っ払いだ。彼はいきなり私の腕をぐいっと掴んだ。


「お姉ちゃん、一人? 寂しいなあ。おいちゃんと一緒に、どこかでしっぽり飲み直さん?」


 だみ声でまくしたてられ、私は凍り付く。

 これが、噂に聞くナンパというやつ……?

 生まれて初めての出来事に、私の心臓がドキンと大きく跳ね上がる。恐怖と嫌悪感で、全身の血の気が引くのを感じた。


「い、いいえ、結構です! 急いでいますので!」


 私は必死に平静を装い、掴まれた腕を振り解こうとした。しかし、おじさんは思った以上に力が強く、私の腕をがっちりと掴んだまま放してくれない。それどころか、さらに強い力でぐいぐいと引っ張ってくる。


「まあまあ、そんな嫌がらんでええやんか。ちょっと付き合うだけやって。別に減るもんじゃあるまいし!」

「いえ、本当に結構です! お願いですから放してください!」


 これはもう、ただのナンパではない。無理やり連れて行かれそうだ。もしかして、何かされてしまう? どうしよう、どうしよう……! 誰か助けて……!

 恐怖で足が震え、立っているのもやっとの状態になった、その時だった。

 突然、私の腕を掴んでいたおじさんの力がふっと抜けた。何が起こったのか分からず、顔を上げると、私の目の前にパーカー姿の広くて頼もしい背中が立ちはだかっていた。


「馴れ馴れしく触るんじゃねーよ」


 低く、静かだが、有無を言わせぬ迫力のある声。まるで正義のヒーローさながらに現れたのは、マナトさんだった。

 彼の背中を見た瞬間、張り詰めていた緊張の糸が切れ、胸の内側にみるみる安堵感が広がっていく。


「あんだよ、邪魔すんじゃねえよ! この姉ちゃんは俺が……」


 最初こそいきり立っていた中年男性だったが、顔をあげた彼がマナトさんの顔面を見た瞬間、態度が急変した。


「……ってか、お兄ちゃん、すげえ美形やね……。こりゃ、あかんわ。失礼しやした!」


 完全に気圧された様子で、おじさんは慌ててその場から逃げるように去っていった。何これ。魔法!?


「……危ない。ぶっ殺してしまうところだった」


 マナトさんは、去っていくおじさんの背中を呆れたように見送ると、くるりと私のほうに向き直った。そして、心配そうな、優しい眼差しで私を見つめた。


「大丈夫? みかりん。怖かっただろ?」


 穏やかな声で言葉をかけられた瞬間だった。自分でも抑えきれず、私の目から、ぽろり、ぽろりと涙がこぼれ落ちた


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