「えっ……………………?」
私の思考が、一瞬完全に停止した。
タクシーが走り出してからも、マナトさんは私の手を握ったままだ。あたたかい温もりが、冷えた指先にじんわりと伝わってくる。私の心臓は、ドキドキと騒がしい音を立てていた。安堵が緊張へと変わっている。私は十分すぎるほど大人なのに……平常心でいようと思えば思うほど動揺は態度に現れてしまい経験の薄さが露呈されていく。
「あ、あの……マナトさん、やっぱり今日は帰ります」
このまま彼の家に行くなんて、さすがにまずいのではないか。理性がしきりに警鐘を鳴らしている。
「だーめ」
「えっ」
「こんなに怖がって震えてる君を、ひとりぼっちの部屋に帰せると思う?」
マナトさんは論外、とでもいいだけだった。
(どうしよう。勘違いされている……)
体が小刻みに震えているのは、緊張のためだ。でも、そうと知られるのは恥ずかしいから、ナンパのせいだと思われているのは好都合かもしれない。
「明子がいますから……大丈夫です」
私はなんとか、帰宅する道を探した。
「この時間帯は仕事でしょ」
マナトさんはきっぱりと言った。その通りだ。うーん。手ごわい。
「で、でも……確かマナトさんのお家には、沢山人がいらっしゃるんでしょう? 執事さんとか、イガさんとか……こんな遅くにお邪魔したら、ご迷惑になってしまいます……!」
「俺なら、とっくに独立してるよ」
「えっ!?」
私は目を丸くした。
「そうなんですか!? じゃあイガさんとは」
「……継ぎたくもない会社を継がせようとしていた人と、同居し続けるなんて地獄でしょ。社内だけでお腹いっぱい」
確かに言われてみればその通りだ。
「じゃあ、アクアマリンに迎えにきたのは……?」
「マンションから出向いたよ。お見合いをすっぽかして、父に迷惑をかけたからね。一応罪滅ぼしみたいなもんかな。そんなにしょっちゅうある事じゃない」
そうか。あの時の騒動は、ほんの数ヶ月前の出来事なのに、なんだかもう随分と遠い昔のことのよう。
(まさか、こんなに……大切な人になるなんて)
思わず感傷にふけってしまう。
マナトさんはちらりと私に目を向けた。
「きっと運命だったんだろうな。君というダイヤモンドに出会えたから」
どきん、と……。
心臓が音を立てる。
(買いかぶられてる……でも……凄く……嬉しいなあ)
気恥ずかしさと喜びと感謝と、色んな感情が胸の中を優しく満たす。
自分の価値なんて自分が一番わかっている。どこにでもある、ただの石ころ。それが私。
でも彼はそうじゃない、といつも言ってくれている。ちゃんとその期待に応えなければ。
(自分を磨こう。出来る範囲で)
心の中でそう誓った。
「また、前向きな事考えてるでしょ。いい男が横にいるのに。そういうの見ると、ちょっかい出したくなるんだよなあ」
ちょっとだけ悔しそうな彼の声。
親指が私の手の甲を、淫らな感じに撫であげる。
(んんっ!?)
私は思わずバッと横を向き、彼の顔を覗き込んだ。
「ん? どうした?」
涼し気で爽やかな彼の声。どうした? なんて言ってるけど……からかいモードにチェンジした気配。
「い、いえ」
私は慌てて前を見た。大変な事に気が付いたからだ。
(ちょっと待って。一人暮らしってことは……夜中に男の人と2人っきり!?)
お屋敷への訪問ですら緊張していたのに。実態はそれ以上に深刻だった!
繋がれたままの彼の手が、急にものすごく熱く感じられる。顔に血が集まっていくのがわかった。
「ははっ。みかりんは本当に面白いなあ。考えてること、駄々洩れ」
揶揄する声がかけられる。
「怖がらなくても大丈夫だよ。俺、紳士だから。送り狼になんてならないから、ね」
いや、しれっとしたこの感じ。
明かに嘘っぽいでしょ!!!!
「あの、やっぱり……」
今度こそ、アパートに帰ると言わなければ。けれど、マナトさんは私の頬にそっと触れると上向かせ、切なげな表情で見つめてくる。
「俺を信じて」
長いまつげに縁取られた大きな目が、じっと私を見つめてくる。これは……まさに子犬の目……。
そのあまりにも甘く、そして色気のある眼差しに、私の心は一瞬で撃ち抜かれた。抵抗する気力なんてあっという間に消し飛ぶ。
私だって彼と一緒にいたい。
ただ、勇気がないだけで……。
私は、彼の視線から逃れるように俯くと、消え入りそうな小声でつぶやいた。
「…………はい……」
だって。そう言うしかないじゃない。
私は彼の言う事ならなんだって聞く、忠犬なのだ。いつの間にかそう躾けられてきた。
「よし。いい子だ」
マナトさんは、途端に嬉しそうな笑顔になり、力強く頷いた。
(なんだか、都合よく操られてる……)
それでも彼の凄まじい魅力を前に、抗うことはできなかった。