タクシーが滑り込んだのは、会社からほど近い場所にそびえ立つタワーマンションだった。
彼の部屋は最上階――俗に言う、ペントハウスらしい。
エントランスを抜け、エレベーターへと向かう間も、私の心臓はうるさいくらいに鳴り響いていた。
(どうしよう、どうしよう……)
焦りだけが頭の中をぐるぐると回る。繋がれた手は、まるで連行される罪人のように、彼に固く握られていて。
「ここまで来て、『やっぱり無理』なんて言わせないからね」
私の不安を見透かしたように、マナトさんがさらりと牽制する。
「というか、すごく手に汗かいてる……。もしかして、俺のこと信じられない?」
追い打ちをかけるような、甘い脅迫。
「ち、違いますっ! そんなわけないじゃないですか!」
慌てて否定すると、マナトさんは意地悪く笑った。
「だよね。俺、紳士だもん。疑う余地なんて、これっぽっちもない」
「え、ええ……」
私は引きつりながら頷いた。
(それでも心がついていけない……)
男の人に慣れてない私にとって、このようなシチュエーションは初めてなのだ。
ドキドキしすぎてこの場から逃げ去りたい。
本音はずっとそう思っている。
「どっちにしても、逃がさないけどね。君の不安なんて、俺が全部忘れさせてあげる」
マナトさんは見透かしたみたいに、私の耳元で優しく囁きかけてきた。
私は熱くなる頬を隠すように、うつむくことしかできなかった。
◇
重厚なドアの先で私を待っていたのは、息をのむような光景だった。
広々としたリビングダイニング。床から天井まで続く大きな窓の向こうには、宝石を散りばめたような都会の夜景が一望できる。
床や壁は落ち着いた色調で統一され、部屋の中央には、空間の主のように大きな革張りのソファが鎮座していた。奥にはデスクとノートパソコンが。振り向くと対面式キッチンが見える。
広大なスペースが、用途によって区切られている感じで、まさしく成功した独身男性の城、といった雰囲気が漂っていた。
「素敵…………!」
あまりの別世界ぶりに、私は呆然と立ち尽くしたまま、感嘆の声を漏らした。
「ふふふ。気に入ってくれたみたいだね。さっきまでビクビクしてたのに」
マナトさんは両目を細めて私を見る。
「あっ。すみません。はしゃいじゃって」
「全然問題なし。ただ可愛いだけだから」
マナトさんは苦笑すると、「あ、ちょっと待ってて」と言って、私をリビングに残し、長い廊下の奥へと消えていった。
リビングだけでも十分に広いのに、廊下も信じられないくらい長く、いくつものドアが並んでいた。彼がどの部屋に行ったのか、着替えているのか、それとも何かを探しているのか、見当もつかない。
一人残された私は、そっとはめ殺しの大きな窓に近づき、眼下に広がる圧倒的な景色に改めて目をみはった。無数の光が瞬き、まるで宇宙に浮かんでいるかのような錯覚に陥る。
「綺麗…………」
明子と一緒に住んでいるマンションも、かなりオシャレで素敵な場所だ。けれど、その前は、古くて狭い2DKの社宅住まい。彼とは、生まれ育った環境も、今いる世界も、何もかもが違うのだ。その歴然とした差を改めて突きつけられ、胸の奥に、ちくりとした寂しさを覚える。私なんかが、こんな場所にいていいのだろうか、と。
そんなことを考えていると、
「…………みかりん、来て」
廊下の方角から、マナトさんの少し掠れた呼び声が聞こえ、私はハッとする。忠犬としては当然即動く。
長い廊下を進むと、途中にあるドアが少しだけ開いており、中からガサゴソと衣擦れのような音が聞こえてきた。おそらく、彼の寝室か、ウォークインクローゼットのような場所なのだろう。
「マナトさん……?」
私は躊躇いつつも、そっとドアの隙間から顔をのぞかせた。
すると、目に飛び込んできたのは、まさに着替えの最中だったらしい、グレーのスウェットパンツだけを履き、上半身が裸のマナトさんの姿だった。
「あ、みかりん。ちょうどよかった」
彼は私の存在に気づくと、少しも悪びれる様子なく、にこっと人懐っこい笑顔を向けた。
その若々しく端正な顔立ちとは裏腹に、彼の体は驚くほどに鍛え上げられていた。無駄な脂肪が一切なく、しなやかに引き締まった胸筋と、くっきりと割れた腹筋。腕にも、浮き出た血管と隆起した筋肉が見える。
「きゃっ! ご、ご、ごめんなさい!!」
予想外の光景に、私の顔は瞬時に沸騰し、心臓が喉から飛び出しそうになる。慌ててドアを閉めようとするが、
「いや、別にいいよ。隠すようなもんでもないし。俺、男だしさ。それより、ほら、こっち来て」
マナトさんは全く気にした様子もなく、手招きをする。
私は恐る恐る、指の隙間から薄目を開けて彼を見た。細マッチョ、という言葉がこれほど似合う人を、私は他に知らない。その完璧な肉体美に、私は釘付けになっていた。さっきまで雨に濡れていた髪は、タオルで乱暴に拭いたらしく、あちこち跳ねていて、それが普段の完璧にセットされた彼とは全然違う無防備な印象を与え、胸の鼓動はますます速くなるばかり。
うん。ギャップ萌えのお手本が目の前にいた。
「ちょっと失礼」
マナトさんは、近くにあった白いバスタオルを手に取ると、私の頭を両側から挟み込み、クシュクシュと仔犬の毛でも乾かすかのように雨粒を拭き取り始めた。
「あ、ありがとうございます……! でも、あの、自分でできますから……!」
「いいから俺に任せなさい」
私の直属の上司である彼に、こんなにもお世話をやかれてしまうだなんて。
彼の綺麗な顔が間近にあって、シャンプーと、彼自身の清潔で少し甘い香りがふわりと漂ってくる。アルコールのせいか、それともこの状況のせいか、頭の中がクラクラしてきた。
優しくも自信に満ちた彼の言動に、心臓がどうしようもなく高鳴る。これはただの親切心だと分かっているのに、まるで誘惑されているかのような錯覚に陥ってしまう。
その事実に恐縮しながらも、結局、忠犬の私はされるがままだ。情けないけれど仕方ない。私は経験不足で、どういうリアクションが正しいのか、本気で全然わからなかった。
髪が乾くとマナトさんは、近くの棚から丁寧に畳まれたTシャツとスウェットパンツを取り出した。
「はい、これに着替えて」
彼はそれを私に差し出した。
「えっ!? そんな、着替えまでお借りするなんて……! 大丈夫です、このままで!」
「何言ってんの。濡れたままだと風邪ひくでしょ」
「でも、大した事ないですし」
ハンカチでそこそこ拭いてもいる。大丈夫のはずだ。
「……知ってる? 透けてるの」
「えっ!?」
私は焦って自分の体に目を落とす。
「そのままだと、俺が理性を保てなくなる。だから、ね?」
彼は悪戯っぽく笑って付け加える。
(そこまで濡れてませんって……)
しかし、ここまで言われたら仕方ない。
「……ありがとうございます。お借りします」
私は俯きながら、小さな声でそう言って、彼から室内着を受け取った。
「じゃあ、着替えたらリビングに来て。温かいコーヒーでも淹れておくから。あ、スーツは浴室乾燥機に釣るしておいて。数時間で乾くから。ね」
マナトさんはそう言うと、部屋を出て行った。彼の足音が廊下を遠ざかっていくのを聞きながら、私はその場にへなへなと崩れ落ちそうになった。
「はああああ…………」
ただ、親睦会に参加しただけのはずなのに、一体どうしてこんな事に……?
とはいえ、彼の心遣いを無下にはできず、私は意を決して、着ていたスーツとブラウスを脱いだ。
ついでに、下着をちらりとチェックして、「……よかった。結構可愛い……」なんて、こんな状況で考えてしまう自分に、「むしろ期待してるんじゃないの!?」と内心激しく突っ込みを入れる。
彼から借りた、大きめの白いTシャツに袖を通す。
洗剤の香りと、彼自身のものと思われる、爽やかで少しだけ男っぽい香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
まるで、マナトさん自身に優しく包み込まれているような感覚に陥り、私の胸は狂おしいほどに高鳴っていた。