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第50話 彼の部屋

「失礼します……」

 少し緊張しながら、私はリビングフロアへと戻った。

 彼はちょうど、淹れたてのコーヒーが入ったマグカップ二つと、色とりどりのイチゴやブドウがきれいに盛り付けられたガラスの皿を、ローテーブルの上に置いているところだった。

 私の姿を認めると、マナトさんの顔が、ぱあっと効果音がつきそうなほど輝いた。


「お、可愛いじゃん、みかりん」


 彼の視線が、私の頭のてっぺんから爪先までを、愛おしそうにゆっくりと撫でる。その熱っぽい眼差しに、私の顔がまたカッと熱くなった。よく見ると、彼も同じデザインの色違いのTシャツに着替えていて、示し合わせたペアルックみたいだ。さらに恥ずかしさが募ってしまう。


「やっぱり、君は小柄だなあ。Tシャツ、ぶかぶかだ。もし下を履いてなかったら、完全にワンピース状態だったね。歩くたびに裾が揺れて……うん、想像しただけで萌えるんだけど」


 マナトさんは真顔でそんなことを言う。


(う、上だけって……!)


 それって、彼シャツっていう、巷で噂の、あのとてつもなくコケティッシュなファッションのことですよね……!? 下着が見えるか見えないかの、あの危ういバランスの……!

 私の妄想癖のある頭の中には、早速、そんな姿で彼の部屋をうろつく自分の姿が、勝手に浮かび上がってきてしまう。だめだめだめ! 思考に強制的にセーブをかけなければ。

 でないと、また何かとんでもなく変なことを口走って、この予測不能なご主人様を暴走させてしまうかもしれない。


「ほら、おいで。みかりん」


 マナトさんは先にゆったりとしたソファに腰を下ろし、自分の隣の座面を、ポンポン、と軽く手のひらでたたいた。そこへ座れ、という合図だ。


(と、隣ですか!?)


 思わず、私の視線は、テーブルを挟んでマナトさんの正面にある、一人掛けのソファへと向かう。スペースは十分すぎるほど空いている。それなのに、わざわざ彼のすぐ隣に腰かける理由なんて…………。心臓がドキドキと警鐘を鳴らす。近すぎる。危険だ。


「みかりん、早く。聞こえなかった? これは、社長命令だよ」


 悪戯っぽく笑いながらも、有無を言わせぬ響きを持った、優しくも厳しい声。その声に促され、私はまるで磁石に引き寄せられるかのように、恐る恐るマナトさんの隣へと腰を下ろした。ソファが柔らかく沈み、彼の体温がすぐそばに感じられる。肩が触れ合いそうな距離。


「うん、いい子だ」


 マナトさんは満足そうに目を細めて、私の耳元で囁いた。その甘い声とすぐ近くで感じる彼の気配に、私の胸は、期待と不安と、そして抗いがたいトキメキでいっぱいになる。


(ああ、やっぱり私は、この人の忠犬なんだ……)


 ご主人様に褒められて、自分でも気づかないうちに、心の尻尾がパタパタと嬉しそうに揺れているのがわかる。単純すぎる自分が少し情けないけれど、この感情には逆らえない。

 マナトさんはニコニコしながら、私の顔をじっと覗き込んできた。その距離の近さに、息が詰まりそうになる。


「もう、落ち着いた?」


 穏やかな、心配そうな眼差しで尋ねられ、私は一瞬何のことか分からなかった。


「……えっと、何のことでしょう……か?」


 ドギマギしながら、彼の視線から逃れるように少し俯いて尋ね返す。


「決まってるだろ。ナンパだよ。さっきの酔っ払いのおじさん。怖かっただろ?」

「ああ……あのことですか。もう、すっかり忘れてました」


 嘘だ。本当は、まだ少しだけ、腕を掴まれた感触が残っている気がする。でも、彼が助けてくれた安堵感の方が、今は何倍も大きい。


「……そっか。引きずらないのは、君の美点の一つだと思うよ。でもなあ、同じくらい、学習しないのはよくない点でもある。警戒心があまりにも薄いと、悪い奴らに搾取されるだけだからね。世の中、いい人ばかりじゃないんだよ」


 マナトさんの目が、ふっと真剣な光を帯びる。その強い眼差しに射貫かれて、私は思わず背筋を伸ばした。


「はい……。気をつけます。本当に……」

「うん。気をつけて。俺がいつもそばにいられるわけじゃないんだから」


 その言葉に、少しだけ胸がちくりと痛む。そうだ、彼は私の保護者じゃない。いつも助けてもらえるとは限らないのだ。


「それと、もう一つ、大事なこと」


 マナトさんは人差し指を立てて、私の目の前に突き出した。


「君が、自分がとんでもない『魔性の女』だってこと、そろそろ自覚した?」

「ま、魔性の女!?」


 あまりにも予想外で、あんまりな言われように、私はあんぐりと口を開け、両目を見開いて彼を見返した。


「そ、そんな……! それはいくらなんでも褒めすぎです! 私が魔性だなんて、ありえません!」

「いや、全然褒めてない」

「そうなんですか!?」

「うん。人によっては嫌がると思うよ。まあ、君は無自覚だからなあ。それはそれで余計にタチが悪いか」


 彼はため息をつく。

 呆れ顔の彼を見て、私はふとある可能性に思い至った。


「あっ!」

「ん? どうした?」

「も、もしかして……マナトさんが、裏で何か指示してたんですか?  私のこと、わざと口説いてみて、みたいな……?」


 木村さんたちが、最初私に随分好意的だったのも、そのせいだったら納得だ。

 私の突拍子もない推理に、マナトさんは一瞬、ぽかんと口を開けて固まった。そして、次の瞬間、こらえきれないといったように、くくくっ、と喉の奥で笑い始めた。


「はははっ! まさか、 そんな手の込んだことするわけないだろ! 俺が、他の男に自分の大切な子を口説かせるなんて、マゾじゃあるまいし」


 彼はひとしきり笑うと、ふっと真顔に戻り、また真摯な瞳で私をじっと見つめた。


「まあ、でも、今の君の反応を見る限り、君側の関心は完全にゼロみたいだから、それはそれでホッとしたよ。正直、気が気じゃなかったからね」

「え……?」

「君の行動すべてを、俺が束縛することなんてできない。それは分かってる。でも……それでも、君が俺のそばにいる時は、他の誰でもなく、俺だけを見ていてほしいんだ」


 彼の声は、切実な響きを帯びていた。



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