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第51話 期待

「はい……」


 私は、彼の真剣な眼差しに吸い込まれるように、小さく頷いた。


「そうしてくれないと、俺、不安で、心配で、仕方なくなっちゃうからさ。……ごめんね、こんな重いこと言って」


 マナトさんは、少し困ったように眉を下げて、私を上目遣いに見つめてくる。いつも自信満々で、少し斜に構えたところがある彼が、今は何の駆け引きもなく、ただ剥き出しの本音を私に語ってくれている。彼の表情と声の響きから、痛いほどはっきりと分かった。

 だから、私も、少しだけ勇気を出して、自分の心を開いてみることにした。


「あの……実は、私も……さっき、マナトさんが、他の女の子たちに囲まれて楽しそうにしてるの見て、なんだか胸のあたりが、もやもやして……ちょっと、嫌だなって、思ってました……」


 言いながら、顔がどんどん熱くなっていくのがわかる。恥ずかしくて、彼の顔が見られない。


「へええ……? そうなの? 全然、そんな素振り、見せなかったから気が付かなかった」


 マナトさんの声には純粋な驚きがあった。


「もしかしたら……私、嫉妬、してたのかな…………なんて……」


 自分でも信じられないくらい大胆な言葉が、口から滑り落ちた。その瞬間、ぐっと強く肩を引き寄せられ、私は彼の腕の中にすっぽりと収まっていた。彼の心臓の音が、私の耳に直接響いてくる。トクン、トクン、と、少しだけ速いリズム。


「嬉しいな……。そうなってくれたらいいなって、ずっと思ってた」


 彼の囁き声が、私の髪を優しく撫でる。意外な言葉だった。嫉妬心なんて、自分でも直視したくないくらい、醜くてマイナスな感情だと思っていたのに。この人は、そんな私の気持ちを、嫌がるどころか、むしろ嬉しそうに受け止めてくれた。

 心臓が、早鐘のようにドキドキと音を立てている。けれど、彼の腕の中から離れたいとは思わなかった。むしろ、この温かさに、もっと包まれていたかった。私はただひたすら俯いて、彼の胸に顔を埋めていた。


「ちゃんと、俺に約束して。これからは、むやみに男の人に近づかないこと。馴れ馴れしくされても、ちゃんと断ること。男は狼だって、今日のことで少しは理由がわかっただろ?」


 彼の声が、頭の上から降ってくる。


「はい……約束、します……」


 その時、私の頭の中にあったのは、ナンパのおじさんのことだけではなかった。田中さんや木村さんたちの、親切心からだと思っていた行動も、もしかしたら、少し違う意味合いが含まれていたのかもしれない。私が気づいていなかっただけで。

 本当に、気をつけなければ。私が無自覚に他の人の気を引いてしまうことで、この大切な人に、心配をかけたり、嫌な思いをさせたりすることだけは、絶対に避けたい。

 私の返事を聞いて、マナトさんの腕の力が少しだけ強まった。彼の瞳が、満足そうにキラキラと輝いているのが、顔を上げなくてもわかる気がした。


「しっかし、嫉妬、かあ。ふふ、可愛いこと言うじゃない。君も、そろそろ、この俺様の底知れぬ魅力に、本気で気づき始めたようだね?」


 彼は、いつもの調子を取り戻したかのように、わざとらしく尊大な口ぶりで言った。本当に、嬉しくて仕方がないようだ。


「そ、そんなの! とっくに気づいてますよ! マナトさんが、すごく魅力的だってことくらい!」


 私は、彼の顔を上げて、少しむきになって言い返した。


「いいね、その返し。最高だ。正直褒め言葉なんて聞き飽きてる。でも君からの称賛は、どんな高級な美酒よりも、俺の心に染み渡るよ」


 マナトさんは、とろけるように甘い笑顔で、私の頬をそっと撫でた。その優しい指の感触に、私の体から力が抜けていく。


「そうか、そうか。やはり、俺は神に選ばれし特別な男だからな。とうとう君も、俺の魅力に悩殺されたかー。いやー、罪な男だな、俺は」


(な、悩殺って……その言い方は、ちょっと方向性が違う気がするんですけど……!)


 まあ、ただ否定はしない。というか、できない。

 私は、彼の腕の中からそっと抜け出し、目の前にあるコーヒーカップを手に取った。まだ温かいコーヒーを一口飲むと、少しだけ落ち着きを取り戻せた気がした。


「……そうですね……。否定しても、仕方ないかもしれません……。図星、です……。なんだか、すごく……恥ずかしいですけど……」


 私は、カップを持ったまま消え入りそうな声でそう言った。

 誰かを応援したり、褒めたりするのは得意な方だと自分でも思う。けれど、心の内側にある、複雑な感情を言葉にして誰かに伝えるのは、生まれて初めてかもしれない。

 そもそも、今まで男性との接触が極端に少なかったこともあって、こういう状況自体に全く慣れていないのだ。

 この情けない告白を、マナトさんはどんな顔で聞いているのだろう。呆れているかもしれないし、あるいは、面白がっているだけかもしれない。心配になって、恐る恐る、カップの陰から上目遣いに彼の方を見ると…………。

 そこには、社長室で以前にも何度か見せたことのある、まるで胸に矢でも刺さったかのような、例のジェスチャーでソファの上で悶絶しているマナトさんの姿があった。


「マ、マナトさん!? だ、大丈夫ですか!?」


 私は慌ててカップを置き、彼の顔を覗き込んだ。


「た、頼むから……! こんな至近距離で、そんな破壊力抜群の、無自覚ビームを放たないでほしい……! 俺を誘ってるのかと、本気で勘違いするからね……! そしてリクエストにお応えしたくなるから! やめて」


 マナトさんは、胸を押さえながら、苦しそうに……でもどこか嬉しそうに……言った。


(さ、誘ってるなんて、そんな……!)


 アルコールが今頃になって本格的に効いてきたのか、それとも彼の言葉のせいか、体中がかーっと熱くなるのを感じた。


「あれ? 否定しないんだ」


 マナトさんはそう言うと、


「もしかして、本当に期待してる……?」


 熱い視線を私の唇に注ぐ。彼の指先が、そっと、私の下唇に触れた。ひんやりとした指の感触と、そのすぐ奥にある彼の体温。そのコントラストに、私の心臓は、破裂しそうなほど激しく早鐘を打つ。


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