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第52話 いちごの味

 目の前に、形の良い唇がある。

 この唇の味を、私はもう知っていて……。

 繰り返し思いだしていた。

 その特別な感触を。


「……みかりん。目を閉じて」


 マナトさんが、甘い声で囁きかけてきた。


(え……?)


 私はぎくっとしてしまう。

 目を閉じる理由。

 それは、もう、 キスのため……だよね?


 また何かのお仕置き? ただ、からかわれているだけ?


 マナトさんの真意がつかめない。

 でも……。


 私、物欲しそうな顔をしてた?


 その可能性がかなり高くて……。


 頬が赤くなっていく。なんてタイミング。これはちょっと恥ずかしいかも。

 それでも、私はそっと瞳を閉じた。

 深夜。アルコールが入ってほんの少しだけ酔ってる私。

 彼の家で、二人きり。

 ただでさえ、私は、マナトさんの忠犬なのだ。

 ご主人様の命令には、拒めない。


(……そうよ……全部彼に任せておけばいい……初めてじゃないんだから……)


 ドキドキしながら私は、彼の唇が近づいてくるのを待つ。いつもより断然大胆になっていた。

 と、閉じた唇に、ひんやりとした感触を覚えた。

 彼の唇……こんなに冷たかっただろうか。

 ドキン、と胸が大きく跳ねる。条件反射のように唇を開きかけた時……。


(……ん?)


 微かな違和感。

 柔らかくて、少しだけ、ざらっとしていて……。いつもの……マナトさんの唇とは様子が違う。

 そっと目を開けてみる。

 違和感の正体はすぐにわかった。

 私の唇に押し当てられていたのは、彼の唇ではなく、真っ赤に熟れた小ぶりな一粒のイチゴだった。


「はい、どうぞ。甘くて美味しいよ」


 マナトさんは、悪戯っぽい笑顔で、イチゴを、そのまま私の口の中へと押し込んできた。私の顔は、驚きと羞恥心で、きっとイチゴより赤くなっていたと思う。


「キス……されるのかと、思った……?」


 マナトさんは、私の反応を見て、しれっとそんなことを言う。完全に、からかわれている!


「…………知りませんっ!」


 私は小声でそう言い返すのが精一杯で、悔し紛れに、口の中のイチゴを強く噛みしめた。


(く、悔しい)


 甘酸っぱくて濃厚なイチゴの味が、口の中いっぱいに広がっていく。


(美味しいから余計に悔しい……!)


 私の肩から一気に力が抜けていく。

 マナトさんは今夜、宣言通り、紳士のままでいてくれるらしい。


「…………ありがとうございます。美味しいです」


 恨めしそうな目で彼をじろりと睨みつけながらも、とりあえず正直な感想とお礼を言うと、


「どういたしまして。じゃあ、今度は、僕にも食べさせて?」


 マナトさんが、そっと口を開けて、私に顔を近づけてきた。


「え……? あ、はい……」


 これは、さっきのお返しをするチャンスかもしれない。私は、お皿の中から一番大きくて形の良いイチゴを選び指でつまむと、彼の唇へとゆっくりと近づけた。


「はい、マナトさん。あーん、してください」


 さっきの仕返しとばかりに、わざと子供をあやすような口調で言ってみる。


「へえ、いいね、それ。すごくそそられる」


 しかし、マナトさんは、私の意図などお見通しとばかりに、むしろ明らかに喜んでいる様子だ。全然、仕返しになっていない。


 少し不満に思いながらも、私は、彼がイチゴを頬張るのを待った。しかし、彼の顔は、イチゴの寸前で止まり、その唇は、イチゴを避けるようにして、そのまま、まっすぐ、私の唇へと、迷うことなく寄せられてきたのだ。


「あっ…………!」


 思わず、私は反射的に背中をのけぞらせた。しかし、その動きは完全に読まれていた。先回りするように、彼の手が私の手首を掴み、固定される。そして、次の瞬間には……。

 唇が、柔らかく、そして熱いもので、完全に塞がれていた。

 長い彼のまつ毛が、私の頬のすぐそばで震えている。彼の鼻先が、私の鼻の横に軽く触れている。

 イチゴの甘さが、まだ私の口の中に残っていた。彼の舌が、それを確かめるように、ゆっくりと私の唇を割り、中へと侵入してくる。それは、文字通り、スイートで、甘い甘いキスだった。

 上唇、下唇と、順番に、角度を変えながら、優しく啄むように吸い付かれ、そして、時折、深く求められる。

 押し返そうとしても、彼の腕が私の後頭部をしっかりと支えていて、逃れることはできない。私は、彼の巧みなリードに翻弄されながら、口の中に残っていたイチゴの果汁と、彼自身の味とが混ざり合う、蕩けるような感覚に、私はただただ身を任せる。

 ゴクリ、と息を飲む音さえも、彼に吸い取られてしまうかのようだ。

 不意に、彼の手が、私の背中を撫で上げた。その瞬間、心臓が、ドキン!と大きく跳ね上がり、全身に電流が走ったような衝撃が駆け巡る。


(え……? こ、これから、どうなるの……? 何か、始まっちゃうの……? どうしたら、いいんだろう……)


 パニックになりそうな頭で、必死に考える。彼は、確かに、初めてキスをしたあの時、「間違えた」と言ったのだ。でも、今のこのキスは? これも、間違いなの? それとも、今度は、本気なの?

 わからない。彼の考えていることが、本当に、全然わからない。でも……。

 このキスが、たまらなく心地よくて、もっと続けてほしいと願っている自分がいる。

 どれくらいの間、そうしていただろうか。永遠にも感じられた、深く、甘いキスが終わり、唇がゆっくりと離れていく。私はそのまま、彼の胸の中へと、強く、きつく抱きしめられていた。彼の鼓動が、私の胸にも直接伝わってくる。

 私の頭の中はマナトさんでいっぱいになっていた。



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