目の前に、形の良い唇がある。
この唇の味を、私はもう知っていて……。
繰り返し思いだしていた。
その特別な感触を。
「……みかりん。目を閉じて」
マナトさんが、甘い声で囁きかけてきた。
(え……?)
私はぎくっとしてしまう。
目を閉じる理由。
それは、もう、 キスのため……だよね?
また何かのお仕置き? ただ、からかわれているだけ?
マナトさんの真意がつかめない。
でも……。
私、物欲しそうな顔をしてた?
その可能性がかなり高くて……。
頬が赤くなっていく。なんてタイミング。これはちょっと恥ずかしいかも。
それでも、私はそっと瞳を閉じた。
深夜。アルコールが入ってほんの少しだけ酔ってる私。
彼の家で、二人きり。
ただでさえ、私は、マナトさんの忠犬なのだ。
ご主人様の命令には、拒めない。
(……そうよ……全部彼に任せておけばいい……初めてじゃないんだから……)
ドキドキしながら私は、彼の唇が近づいてくるのを待つ。いつもより断然大胆になっていた。
と、閉じた唇に、ひんやりとした感触を覚えた。
彼の唇……こんなに冷たかっただろうか。
ドキン、と胸が大きく跳ねる。条件反射のように唇を開きかけた時……。
(……ん?)
微かな違和感。
柔らかくて、少しだけ、ざらっとしていて……。いつもの……マナトさんの唇とは様子が違う。
そっと目を開けてみる。
違和感の正体はすぐにわかった。
私の唇に押し当てられていたのは、彼の唇ではなく、真っ赤に熟れた小ぶりな一粒のイチゴだった。
「はい、どうぞ。甘くて美味しいよ」
マナトさんは、悪戯っぽい笑顔で、イチゴを、そのまま私の口の中へと押し込んできた。私の顔は、驚きと羞恥心で、きっとイチゴより赤くなっていたと思う。
「キス……されるのかと、思った……?」
マナトさんは、私の反応を見て、しれっとそんなことを言う。完全に、からかわれている!
「…………知りませんっ!」
私は小声でそう言い返すのが精一杯で、悔し紛れに、口の中のイチゴを強く噛みしめた。
(く、悔しい)
甘酸っぱくて濃厚なイチゴの味が、口の中いっぱいに広がっていく。
(美味しいから余計に悔しい……!)
私の肩から一気に力が抜けていく。
マナトさんは今夜、宣言通り、紳士のままでいてくれるらしい。
「…………ありがとうございます。美味しいです」
恨めしそうな目で彼をじろりと睨みつけながらも、とりあえず正直な感想とお礼を言うと、
「どういたしまして。じゃあ、今度は、僕にも食べさせて?」
マナトさんが、そっと口を開けて、私に顔を近づけてきた。
「え……? あ、はい……」
これは、さっきのお返しをするチャンスかもしれない。私は、お皿の中から一番大きくて形の良いイチゴを選び指でつまむと、彼の唇へとゆっくりと近づけた。
「はい、マナトさん。あーん、してください」
さっきの仕返しとばかりに、わざと子供をあやすような口調で言ってみる。
「へえ、いいね、それ。すごくそそられる」
しかし、マナトさんは、私の意図などお見通しとばかりに、むしろ明らかに喜んでいる様子だ。全然、仕返しになっていない。
少し不満に思いながらも、私は、彼がイチゴを頬張るのを待った。しかし、彼の顔は、イチゴの寸前で止まり、その唇は、イチゴを避けるようにして、そのまま、まっすぐ、私の唇へと、迷うことなく寄せられてきたのだ。
「あっ…………!」
思わず、私は反射的に背中をのけぞらせた。しかし、その動きは完全に読まれていた。先回りするように、彼の手が私の手首を掴み、固定される。そして、次の瞬間には……。
唇が、柔らかく、そして熱いもので、完全に塞がれていた。
長い彼のまつ毛が、私の頬のすぐそばで震えている。彼の鼻先が、私の鼻の横に軽く触れている。
イチゴの甘さが、まだ私の口の中に残っていた。彼の舌が、それを確かめるように、ゆっくりと私の唇を割り、中へと侵入してくる。それは、文字通り、スイートで、甘い甘いキスだった。
上唇、下唇と、順番に、角度を変えながら、優しく啄むように吸い付かれ、そして、時折、深く求められる。
押し返そうとしても、彼の腕が私の後頭部をしっかりと支えていて、逃れることはできない。私は、彼の巧みなリードに翻弄されながら、口の中に残っていたイチゴの果汁と、彼自身の味とが混ざり合う、蕩けるような感覚に、私はただただ身を任せる。
ゴクリ、と息を飲む音さえも、彼に吸い取られてしまうかのようだ。
不意に、彼の手が、私の背中を撫で上げた。その瞬間、心臓が、ドキン!と大きく跳ね上がり、全身に電流が走ったような衝撃が駆け巡る。
(え……? こ、これから、どうなるの……? 何か、始まっちゃうの……? どうしたら、いいんだろう……)
パニックになりそうな頭で、必死に考える。彼は、確かに、初めてキスをしたあの時、「間違えた」と言ったのだ。でも、今のこのキスは? これも、間違いなの? それとも、今度は、本気なの?
わからない。彼の考えていることが、本当に、全然わからない。でも……。
このキスが、たまらなく心地よくて、もっと続けてほしいと願っている自分がいる。
どれくらいの間、そうしていただろうか。永遠にも感じられた、深く、甘いキスが終わり、唇がゆっくりと離れていく。私はそのまま、彼の胸の中へと、強く、きつく抱きしめられていた。彼の鼓動が、私の胸にも直接伝わってくる。
私の頭の中はマナトさんでいっぱいになっていた。