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4章

第53話 切り替え

 柔らかな朝陽が執務室のデスクに白い光の筋を落としていた。

 磨き上げられた窓の外には、抜けるような青空が広がり、空気は澄み渡っている。

 体が軽い。心の奥底に沈殿した澱が洗い流され、代わりにキラキラした何かで満たされたみたいだ。

 自然と背筋が伸び、私は胸の中で小さく、けれど力強く呟く。

「よし、今日も一日、頑張ろう!」

 まずはタスクを確認し、優先順位をつけなければ。パソコンを起動し、スケジュール管理ソフトをひらく。

(主なものは三件。会議中心ね)

 うん、これなら大丈夫。丁寧かつ手際よく、一つ一つ確実にこなそう。

 彼にふさわしい立派な秘書に私はなる。


 カチャリ、と社長室のドアが音を立てて開いた。

 反射的に顔を上げると、逆光の中にすらりと長身のシルエットが浮かび上がる。

 彼が登場した瞬間、まばゆい光が部屋の隅々へと広がっていく。スポットライトを背負った男。そんな二つ名がぴったりだ。

(マナトさん……)

 条件反射のように胸がドキッと高鳴ったけれど、ぐっと堪えて、精一杯口角を引き上げた。今日から私は生まれ変わると決めたのだから。

「おはようございます!」

 静かな室内に、自分でもうっと引いてしまうほど、大きく弾んだ声が響きわたる。

「おはよう。てか、ずいぶん元気だね、みかりん」

 彼は意外そうに私を見つめ、切れ長の目を見開いた。

 うん、我ながら今の挨拶は小学生さながらだった。

「あ、いえ、その、ちょっと張り切り過ぎました。大変失礼いたしました!」

 私はペコリと頭を下げる。

「いや、それは別に構わないんだけど、意外でさ。もっとこう、違うリアクションを想像してたんだ。例えば……そうだな……」

 マナトさんはふわりと私に顔を近づけてくる。

 神がかった美貌が、吐息がかかりそうなほどの至近距離に迫る。私の心臓はドクン! と大きく、そして甘く跳ね上がった。マナトさんはにやりと笑った。

「今、ドキドキしてるでしょ。みかりん」

 図星をつかれてハッとする。

「そ、そ、そ、それは」

「だって昨日の今日だもの。当然だよ」

 満足そうに頷きながら、マナトさんは自身の薄い唇に、そっと指先で触れた。その挑発的な仕草だけで、昨夜の、あの熱くて甘いキスの記憶が鮮明に呼び覚まされる。この唇が、私の唇に重ねられ……そして……。

 あ、ダメだ、ダメ! 早速、思考が甘い方向へ逸れていく。流されないようにしようと、固く決めたばかりなのに。せっかくの決意がぐらつく前に、私は慌てて頭をブルブルと力強く振って、甘美な雑念を追い払う。

 そんな私の抵抗を見て、マナトさんは「あ、まーた何か余計なこと考えてるね」と、心底楽しそうに微笑んだ。

 天使のように綺麗で……悪魔のように私の心を的確に乱す胡散臭い笑顔。その魔力に頭をクラクラさせながらも、私は小さく咳払いをし、意識して落ち着いたトーンの声で話しかけた。


 これからはプロの秘書として、彼を支えるのだから。


「本日のスケジュールをお伝えします。午前9時半よりアール社高橋様とのオンライン会議、11時からは楠木銀行の川村様がご来社されます。午後は14時から社内ミーティング、16時半には明日の取締役会資料の最終確認をお願いいたします」


 淀みなくスケジュール報告を終えた私は、ふとマナトさんのネクタイがほんの少しだけ歪んでいるのに気がついた。いつもは装いも含めて完璧な彼にしては珍しいその乱れに、なぜだか私の胸が小さくときめく。


「マナトさん、失礼します」


 一歩、彼へと足を踏み出すと、彼は「ん?」と訝しげな表情で私を見た。


 そっと彼のネクタイに手を伸ばす。指先が微かに触れただけで、彼の体温がじかに伝わってきて、心臓がまたドクンと大きな音を立てる。


(ダメダメ、おちついて、私ったら!)


 自分を叱咤しながら、ネクタイの結び目に意識を集中させる。ゆっくりと形を整え、上質なシルクの滑らかな感触を指先に抱きながら、きゅっと締めてバランスをとり、離れて見る。うん、いい感じだ。完璧な仕上がりに、小さな満足感が胸に込み上げてくる。


「少しだけ、直させていただきました」


 そう言って顔を上げると、マナトさんが、少しムッとしたような意味深な表情を浮かべているのに気が付いた。頬が少し赤い気がする。


「……そうきたか。みかりん秘書には参ってしまうね」


「えっ……?」


 どういう意味だろう。彼の言葉の真意が読めない。


「もしかして、駆け引きのつもり? これが計算ずくだとしたら、君、相当な凄腕だよ? おかげで俺は、昨夜からずっとみかりんのことで頭がいっぱい。怒らせてしまったのか、それとも……悩みまくって正直ほとんど寝てないからね」


「け、計算だなんて、そんな滅相も……!」


「俺を君の虜にしようとか思ってるでしょ。でも残念。今でも十分達成してるから無駄な努力だよ」


 とんでもない濡れ衣をきせられ、私は慌てた。


「まさか! あ、あの、そろそろコーヒーでも淹れてきますね!」


 私は慌てて会話を打ち切ろうとした。


「じっとしてて。チェックするから」


 彼は私の肩に両手を置き、ぐっと顔を近づけて、逃げられないようにじっと視線を合わせてきた。


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