間近にある彼の唇と、吐息。この唇がどんなに優しく私の唇に重ねられるか、私はもう知ってしまっている。どんなに甘く、気持ちよいかも……。マンションの一室で与えられたとろけるようなキスが蘇り、眩暈がしそうになるのを必死で堪えた。
ダメだ。今の私は仕事優先、そして自分を磨くこと。その二つに集中すると決めたばかりなんだから。そう自分に強く言い聞かせ、目を逸らさず彼の視線を受け止めた。
やがて、マナトさんは諦めたようにふっと息を吐いた。
「はああ。やっぱり無自覚か。……完全に俺の負けだ。本当に君って人は、俺の心を掴んで離さない」
そして続ける。
「俺、負けず嫌いなんだ。このままじゃ終われないんだよね」
マナトさんは私の肩に置いていた手を、ゆっくりと頬に滑らせてきた。ひんやりとした彼の指先が、熱を持った私の肌に触れる。その違和感だらけな感触に、びくりと体が震えた。
「な、ななな、何ですか、いきなり……!?」
慌てて一歩後じさろうとしたけれど、彼のもう片方の手が私の腰に素早く回され、いとも簡単に阻止される。完全に捕まってしまった。
「昨日の続き、してもいい?」
耳元で囁かれた、熱を帯びた低い声に、全身の血が逆流する。昨日の、あの甘くて、蕩けるようなキスが、また、今ここで?
「マナトさん、だ、ダメです……っ! 会社ですよ……!?」
必死で抵抗の言葉を口にしようとするけれど、声は無様に上ずり、震えている。彼の指が、私の耳たぶをそっと、しかし確実に捕らえて軽くつまんだ。その小さな刺激さえ、今の私には強すぎて、全身が砕けそうになる。
「この反応。本当に嫌なのか疑問なんだよなー」
意地悪く問い詰められ、言葉に詰まる。嫌だけれど、嫌じゃない。そんな矛盾した気持ちが、私の中でぐるぐると渦巻いて、どうにかなりそうだ。
顔を真っ赤にして俯く私の前で、マナトさんはくつくつと楽しそうに笑った。完全に面白がられている。
何か、何か話題を変えないと、彼のペースに完全に飲み込まれてしまう。
そうだ。
「あ、あのっ! きょ、今日のお弁当のことなんですけどっ!」
必死で声を絞り出す。彼の腕の中から抜け出せないまま、私はおずおずと顔を上げた。
「栄養のバランスに特に気を使った、体に優しいメニューにしたんですっ! 見た目にも、ほんの少しですけど、こだわってみましたので、た、楽しみにしていてくださいね!」
自分でも正直、この切り替えの早さは凄いと思う。飲み会で女性社員の方々から得た情報を元に、翌日もう対応できているのだから。自画自賛したくなるほどである。
マナトさんは一瞬きょとんとした顔をして、その後とても嬉しそうに笑った。
「へえ。愛を感じるなあ」
彼の声のトーンが、再びとろけるように甘くなり、私の頭の中で危険信号がけたたましく点灯する。
「ちゃんとお礼、しないとね」
そう言った瞬間、何の前触れもなく、窓のブラインドがスルスルと音もなく下りていき、部屋は外部の光から完全に遮断された。社長室が甘く危険な密室へと変わってしまう。
まずい。この感じには覚えがある。
心臓がドクン、ドクンと警鐘のように、しかしどこか期待を込めて鳴り響く。
ハッとして彼から距離をとろうとしたが、腰に回された腕にぐっと力が込められ、それはかなわなかった。
「愛には、愛で応えないとね」
囁きと共に、抗えない優しい力で引き寄せられ、私は彼の硬質な胸の中にすっぽりと閉じ込められていた。ぎゅっと、息が止まりそうなほど強く、けれどどこまでも優しく抱きしめられる。
スーツ越しでもはっきりと伝わる彼の体温と、速く感じる心臓の音。彼のシャツから香る、清潔で、でもどこか甘くクラクラするような匂い。昨夜の記憶が鮮やかに蘇り、もう抵抗する気力なんて、どこかへ消えてしまっていた。
ああ、また私は、この人に翻弄されている。ついさっき固めたばかりの決意なんて、彼の前ではこんなにも脆く折れてしまった。
ちゅっと柔らかな感触がおでこに残った。驚いて顔を上げると、そこには悪戯っぽく細められた彼の瞳があった。
ゆっくりと腕が放され、解放される。
彼は澄んだ声でこう言った。
「今日も一日よろしくね、みかりん」
その、どこまでも甘い声と、全てを見透かすような笑顔が、完全に私をノックアウトする。もう無理だ。これ以上ここにいたら、私の心臓が、本当にどうにかなってしまう。
「……コ、コーヒーを、お持ちしますっ!!」
私はそう叫ぶのが精一杯で、燃えるように熱い顔を隠すように、ドアに向かった。
「おっと、待った!」
しかし、ドアノブに手をかける寸前、いとも簡単に彼の涼やかな声に呼び止められる。振り返る余裕なんて、もちろん、あるはずもない。
「は、はい」
「みかりん、今ドキドキしてる?」
世間話みたいに話しかけられて、私は思わず頬を真っ赤に染めながら、
「当たり前です!」
と叫んだのだった。