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第55話 昨晩の出来事

 給湯室のひんやりとしたステンレスのシンクにもたれかかり、小さく息をつく。手のひらで顔を覆うと、頬がじんじんと熱を持っているのが分かった。

 だめだ、だめだ。無駄なドキドキはやめようと思っていたのに。付け焼き刃の平常心なんて、さっきの王子的笑顔と不意打ちの抱擁、そしてあの意地悪な質問で、あっけなく吹き飛んでしまった。

 嫌だなあ、かなり頑張ったつもりだったのにな。平静を装うのって、こんなにエネルギーを使うものだったなんて。

 コーヒー豆をキャニスターから取り出し、ミルにセットする。ハンドルを回すと、ガリガリという音と共に、芳しい香りが鼻腔を満たした。

 瞳を閉じ記憶の扉を開く。昨夜の、酩酊するような、夢見心地のひと時が、脳裏にゆっくりと広がっていく。

 昨夜。彼のマンションで私は唇を奪われていた。

 上唇、下唇と、順番に、角度を変えながら、優しく啄むように吸い付かれ、そして、時折、深く求められる。テクニックに長けたキス。

 キスは初めてじゃない。でも、その時は完全に油断しきっていて……。不意打ちすぎて、酸欠になってしまうかと思った。キスの合間に目を開けると、彼の閉じられたまぶたと長いまつげが間近に見え、その息をのむほどの美しさに息をのんだ。

 私の気配を感じたのか、彼の目がパチリと開かれ、その深い色の瞳と視線がかち合う。


「ん?」


 その瞳の中に映る、ほんの少しの戸惑いと、そして何かを探るような色。

 その瞬間、私ははっと我に返った。


(私ったら、また流されて……!)


 頭の中で警鐘が鳴り響く。今すぐこの場から立ち去らないと、大変な事になると本能が私に告げていた。

 夢のような時間から、一気に現実へ。


「あ、あの……そろそろ、失礼します。お洋服、もう乾いたと思いますし……」


 全く色気のない、事務的な言葉。あまりにも唐突で、自分でも驚くほどだったけれど、パニック寸前の私にはそれしか思いつかなかった。


「え……?」


 至近距離にある彼の美しい顔は、まだ少し熱を帯びているように見えた。彼も戸惑っている……その隙に、私は必死で平静を装い、震える声で言葉を続けた。


「着替えて、帰ります。その……色々、ありがとうございました」


 どこかぎこちない私の言葉に、彼は何かを察したように、静かに頷いた。

 急いで着替えを済ませ、彼が呼んでくれたタクシーに乗り込むまで、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。何か話そうとしても、言葉が喉につかえて出てこなかったのだ。

 タクシーが走り出すと、私はシートに深く身を沈め、大きく息を吐いた。車窓を流れる夜景が、まるで夢の中の景色のようにぼやけて見える。

 ようやく一人になった車内で、私はずっと激しく波打っていた心臓にそっと手をあてた。

 イチゴの香りがした、甘いキス。伝わってきた彼の熱。鼓膜の奥に残る彼の言葉。そして、男っぽい彼の匂い。

 そんな中で、はっきりと気がついてしまったのだ。狂おしいほど甘く、胸が締め付けられるようにときめくこの感情。これが、きっと、恋、なのだ、と。


 私は、マナトさんに恋してる……。


 その事実を認めた途端に、モノクロだった世界に、鮮やかな色が溢れ出したような感覚に包まれた。頭の中が、彼のことでいっぱいになる。他のことなんて、もうどうでもよくなってしまった。

 ずっと心のどこかで憧れていた本当の恋が、ついに始まったのだ。これまで想像してきたどんな感情のシミュレーションも、実際には全く役に立たないくらい、彼の存在が、私が抱えていた不安や過去の傷さえも塗り替えていく。

 彼の「片想い」発言。彼をよく知るイガさんや田中さんからの「マナトは絶対に社内恋愛はしない」という悲しいリーク。それなのに、繰り返される甘いキス。ファーストキスの後、「間違えた」と告げられてしまった、あの衝撃的な一言……。思い返せば、疑問符だらけだ。


 でも……。


 私は、マナトさんのことが好き。この気持ちは、もうどうしようもないくらい確かなものだ。彼の心の矢印が、今、私に向いていなくても関係ない。

 だって、私が彼を好きだというこの気持ちだけは、紛れもない事実なのだから。


 仕事に全力を尽くそう。


 そして、彼にふさわしい、魅力的な人間になろう。そのためにも、日々の小さな努力を積み重ねていくのだ。


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