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第56話 コーヒーを淹れていたら

(と思っていたのに……なかなかうまくいかないわ)


 コーヒーの香りに包まれながら、社長室での出来事を反芻する。 

 もっと成長しなきゃ。

 そんな事を思っていたら……。


「あら、あなた」


 聞き覚えのある甲高い声。振り返ると櫻井さんがいた。厚めのファイルを抱え通りすがりに立ち寄った、という風情だ。細い眉が釣り上がっている。

 ひた、とこちらを見据える青い瞳にブルっと震えた。一瞬で冷え冷えとした空気……率直に言うと敵意……を感じてしまい、ああ、思い込みはダメだと反省する。


「おはようございます」


 私の挨拶を華麗に無視すると、櫻井さんは腕組みをした。


「昨日総務の飲み会に出たんですって? 本当に図々しいんだから」

「ええ。よくご存じですね」


 私は内心かなり驚いていた。

 地獄耳とはこのことか。


「無能な秘書の噂なんて、あっという間に社内に広まるものよ」


 櫻井さんは、美しい眉をさらに吊り上げた。


(無能……って聞こえたけど……まさかね)


 大人が面と向かってそんなことを言うわけがない。聞き間違いだと私は思うことにした。それにしても……。


(こないだも思ったけど圧がすごいわ!)


 綺麗な顔をしているだけに、言動にそこはかとない迫力があるのだ。

 後ずさりしたくなるも、ぐっと堪える。


「いい機会だから教えてあげる。あなたを経由すると、簡単なアポイント一つでもやけに時間がかかるって話よ。お願いだから、社長に恥をかかせないでちょうだい」


 アポイントに時間がかかっているなんて、正直全く心当たりがない。櫻井さんが耳にしたそれは、明らかに誰かの悪意によって作られた噂だろう。

 普通なら腹を立てる場面かもしれないけれど、なぜか妙な感心が先に立つ。この人の感情はダダ漏れだ。ストレートな分対応がしやすい。


「なるほど。ご指摘いただき、ありがとうございます。気をつけますね」


 自分だって完璧な人間ではない。

 ましてや秘書としては発展途上だ。

 とはいえ、クレームを全部受け入れるのは違うと思う。

 なのでこの対応は、今の自分が考える最適解だった。

 しかし、櫻井さんは目を剥いた。


「あんた私をバカにしてるでしょ。改善する気もないのに適当なことを言わないでよ!」

「適当なんて……誤解です……」


 小さな獣みたく、ふぅふぅと怒りを発散している櫻井さん。


 私は観念して説明を始めた。


「私、前の職場で、周りの方々とうまくコミュニケーションが取れていなかったみたいで……退職してからかなり後悔したんです。人の感情にあまりにも無頓着で、鈍感すぎたんだなって」


 そう。直接のきっかけはどうあれ(間違いなく兄のせいだけど!)もっと早く周囲の空気の変化に気づけていれば、違う未来があったのかもしれない。突然突きつけられる現実は、あまりにもダメージが大きいのだ。もちろん、こうして真正面から否定的な言葉をぶつけられるのは残念だけれど、陰で噂されるよりマシだった。

 ちょうど、コーヒーがぽとぽとと最後の数滴を落とし終わり、芳しい香りが給湯室に満ちる。

 カップにコーヒーを注ぎながら、私はゆっくりと口を開いた。


「私には、至らないところが沢山あります。ですから、ご指摘いただけるのはありがたいです。もちろん、ただ聞くだけではなくて、きちんと改善に向けて努力するつもりです。あ、今、お昼休みの30分間を利用して、英語の勉強を始めたんです。櫻井さんに英語力は大事だ、って気づかせていただいたおかげです」


「30分!? 短かっ! それでやった気になってるわけ?」


 櫻井さんは呆れたように鼻を鳴らす。その反応はごもっともだ。


「ええ。でも、やらないよりはいいはずです。千里の道も一歩から、ですよ」


 私はきっぱりと言い切った。

 櫻井さんの顔がみるみるうちに赤く染まっていくのが見えた。どういう感情がその胸に今あるのだろう。けれど、今はそれを詮索している場合ではない。


「それでは、これで失礼しますね」


 私は軽く頭を下げ給湯室を後にした。


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