私の心臓は大きく跳ねる。
まさかのマナトさん登場だ。
彼が身に着けているのは、洗いざらしのダンガリーシャツと細身のジーンズ。肘のあたりまでたくし上げられた袖からは、細いけれどほどよく筋肉がついた腕がのぞいている。
スーツという鎧を脱いだ彼はいつもよりずっと若々しく、溜め息が出るほど爽やかだった。マナトさんのレアなカジュアルスタイルに見とれているうちに、なぜ彼がここにいるのかという最大の疑問は、一瞬で吹き飛んでしまった。
「葦原健じゃなかったんだ」
「でも、イケメンには間違いないよね」
芸能人じゃないとわかっても、ギャラリーたちは退くどころか、値踏みするように彼を眺め、ささやきあっている。
「あの、じゃあ私たちとご一緒しませんか」
逆ナンを試みる女性まで現れた。
「あー、ごめん。無理なんだ」
あっさり断る彼を、風船を取ってもらったさっきの男の子が憧れの眼差しで見上げている。
(子供から見てもかっこいいのかな……わかるなあ)
オフの日だからか私もすっかり推し活気分だ。普通に、ずっと見ていたい魅力がマナトさんにはある。
マナトさんが顔をまっすぐこちらに向け、視線と視線がぶつかる。
瞬間、ぱっと彼の表情が変わった。
「みかりん!!」
なんだか、探していた人を見つけたような、弾んだ声。
そして……。
(なんて顔するの……!?)
どきん、と心臓が跳ね上がる。
だって、こんなに嬉しそうな顔をするなんて……。
ぶわっ、と全身の血液が顔に上がっていくのがわかった。
「こ、こんにちは」
私は歪つな笑顔を向けた。
ギャラリーの視線が、一気に私に向けられて、緊張してしまう。
その場の空気はがらりと変わった。
「え、彼女?」
「信じられない。普通すぎる」
「つまんないの」
がっかりしたように呟き、散っていく女性たち。
(普通ですみません。ただし、恋人じゃなくて部下なので許して!!)
心の中で恐縮しまくっている間にもマナトさんは歩を進め、もう私の正面にいる。周りが気になる小心者な私と違い、マナトさんはギャラリーの事など全然気にしていないようだった。
「マナトさん。どうして……?」
ここに来てやっと、私はその疑問にたどり着く。
私の質問はマナトさんではなく、別な人が答えてくれた。
「社長もペアチケットが当たりまして。だから一緒に来たんです」
彼の背後から、田中さんがにゅっと顔を出し、まるで何かの取説でも読んでいるような少し棒読みの口調で告げる。
「た、田中さんまで!? 社内アンケートの景品ですか?」
「ええ。偶然にも、社長と秘書が1、2フィニッシュ。他の社員には言わないでくださいね。不正を疑われても仕方のない結果ですから」
「わかりました」
「じゃ、じゃあ、チケットが当たったのはマナトさんで、田中さんは……」
「もちろん俺からのプレゼントだよ。なんたって俺の大切な人だもん」
そう言って、マナトさんは田中さんの肩を抱き引きよせた。田中さんは意外だったのか、ぎょっとしたようにマナトさんを見ている。一瞬、バラの花びらが舞ったような気がした。マナトさんは勿論、田中さんも素敵な人で、背の高い二人が並ぶととても目立つ。
尊い、という言葉が自然に浮かび、私は思わず両手を握りしめ呟いた。
「……本当に仲良しなんですね! なんて 素敵なご関係! 素晴らしいです!」
目の前にいるのは、長い時を一緒に過ごした親友同士。妄想人間の脳裏には、早速、美形男性のバディ物語が展開されそうになる。
「いや、朝倉さん、納得しないでほしい、これには訳が」
「照れんなって。俺と一緒に水族館に来れて嬉しいだろ?」
田中さんが必死で何かを言い繕おうとしたが、マナトさんがそれを遮るように、にっこりと、それはもう絵に描いたような爽やかな笑顔を浮かべている。
と、その時。
「もしかして迷子? みかりの方向音痴も困ったものね」
明子が声をかけてきた。
「ごめん。すっかり忘れてた」
「ちょっと、大丈夫?」
いぶかし気な明子にマナトさんが微笑みかける。
「こんにちは。お久しぶりです」
「あら、あなた、マナトさんじゃない」
明子が両目を丸くしている。
一度バーで二人は会っている。客商売の長い明子の記憶力は半端なく、だからこそ信頼されているわけだが、そうじゃなくてもマナトさんみたいな男性は一度見たら忘れないだろう。
「私たちと同じく、ペアチケットが当たったみたいなの。この方が、会長秘書の田中さん。ルームメイトの明子です」
私が明子に状況を伝え、初対面同士を紹介する。
「初めまして」
田中さんはくい、と眼鏡を押し上げる。
彼女の視線が、マナトさんと私、そして困り顔の田中さんの間を行き来する。数秒で状況を把握したようだ。
「へえ。なるほど。そういうことね」
明子は何故かにやりと笑い小声でつぶやく。
そして、
「まあ。素敵なメンズが落ちてたじゃない」
明子はすっと田中さんの前に立つと、まるで獲物を見つけた猫のように目を細め、彼の腕に自分の腕を絡ませた。
田中さんが、頬を赤くする。
「実はね。女どうしで水族館巡りなんて、味気ないって言ってたの。田中さん、私と一緒に回りましょ」
明子は、まっすぐに田中さんを見上げながら言った。
冗談のようで、有無を言わせぬ圧を感じる、明子の態度。
「あ、はい。喜んで」
田中さんのOKをとりつけると、明子はくるりと私を見た。
「ごめんね。みかり。というわけで、ここからは2対2にわかれましょ。あなたはマナトさんとペアね」
そして耳元に唇を寄せてくる。
「頑張ってね」
そして田中さんと腕を組んだまま、引きずるようにして去っていく。
私は困ったようにマナトさんを見る。彼の端正な顔は何故か楽し気にほころんでいて……私の胸をまたキュン、とさせたのだった。