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第61話 デビルマナティー

 いきなり二人きりになった私たち。

 あたりは多くの人で賑わっているのに、ざわめきが急に遠のいて世界に私とマナトさんしかいないような錯覚に陥る。

 どくどくと心臓が早鐘を打ち始める。何を話せばいいのか、視線をどこに向けたらいいのか分からない。

 オフィスでは毎日顔を合わせているのに……私服姿の彼と休日に会っている、というシチュエーションに、心臓がぎこちなく音をたてた。


「すみません。明子ったら。せっかく田中さんとの大切な時間だったのに」


 恐縮しきっている私を見て、マナトさんはふっと笑った。


「本当に鈍感なんだなあ。まあ、そこが君のいいところだけど」


 マナトさんが、ふいに私の手をガシッと、力強く掴んだ。


「え?」


 驚いて彼を見上げる私。

 マナトさんは、私の指に自分の指を一本一本絡めてきて、最後には恋人繋ぎに握りこんでしまった。


「っ!?」


 まるで電流が走ったかのような衝撃と、甘く痺れるようなときめきが全身を駆け巡る。彼の指先から伝わる体温が、私の手だけでなく、体全体の熱をあげ顔がカッと赤くなるのがわかる。


「俺は普通に嬉しいけど」


 意味深なセリフにドキドキしながらも、彼がこの状況を嫌がってないどころか歓迎してくれている事に安堵する。


「せっかく君の親友がくれたチャンスだ。楽しもう。行くよ。みかりん」


 私の戸惑いや内心のパニックなどお構いなしに、マナトさんは私と手を繋いだまま水族館の入り口に向かい悠然と歩き出した。あまりにも自然なエスコート。すごく頼りがいのある彼と、デートしてるみたい。


 違う。これはもう、紛れもなくデートだ。私がずっと夢見ていた大好きな人との初めてのデートなんだ。


(夢が……叶った……)


 内緒だけれど、私もとっても嬉しかった。


 薄暗い館内に足を踏み入れると、色とりどりの魚たちが優雅に泳ぐ巨大な水槽が目に入った。海に似た水の青さとカラフルな照明、自然が生み出した魚たちのカラーが入りまじり、ファンタジックな世界を作り出している。


「わぁ……綺麗……」


 珍しい海洋生物たちを前にして、私は思わずため息をついた。

 特に目を引いたのは、巨大なイトマキエイだった。まるで大きな翼を広げるように、優雅に水中を泳ぐ姿は、まるで青空を滑空しているようだった。


「すごい……あんなに大きなエイ、初めて見ました!」


 圧倒的な迫力にすっかり心を奪われた私は、思わずマナトさんの手をぎゅっと強く握りしめてしまった。


「あ、ごめんなさい」


 慌てて緩めようとしたけれど、マナトさんは嬉しそうに「だめ。このまま」と囁き、解きかけた指をしっかりと握りなおしてくる。

 そして前を向いた。


「イトマキエイ、アメリカじゃ『デビルフィッシュ』って呼ばれることもあるらしいよ。頭のところにあるヒレの形が、悪魔の角みたいに見えるからだって」


 はじめて知る豆知識。


「デビルフィッシュ、ですか。なんだか、聞き覚えがあるような」


 私がそう言うと、マナトさんはフッと柔らかく笑った。


「デビルマナティじゃない?」

「あ、それです!」


 バー・アクアマリンの片隅で、マナトさんは笑いながら自身をそう呼んでいた。


「君と初めて出会った時だ。懐かしいな。あれから、まだそんなに時間は経ってないはずなのに、随分昔のことのように感じるよ」


 どこか遠くを見つめるようなマナトさんの横顔に、私も頷く。周囲の視線を独り占めにしながら私の前に現れたマナトさん。あの時は、まさか自分がこんな風に彼と手を繋いで水族館を歩くことになるなんて考えてもいなかった。

 とんでもなく綺麗で、なんだかちょっぴり変わった人。ほんの一瞬交わるだけで、そのうち互いの記憶から消え去るだけの存在。

 あの時はそう思っていた。

 それなのに今、私たちは手を握り合い、至近距離で互いの熱を感じ合っている。


(信じられない……)


 感慨にひたる私の気持ちを知ってか知らずか、マナトさんは私に目を向けいたずらっぽく笑った。


「ま、俺たちのストーリーはまだまだ続くから」


 そんな呟きを耳にした途端、頭の中に彼と歩む未来がパーっと広がっていく。

 それは、とても明るく、楽しげなものだった。


 私たちは様々な水槽を見て回った。サンゴの間を縫うように泳ぐ色鮮やかな熱帯魚の群れ。

 ドレスのような触手を伸ばし、ゆらゆらと優雅に漂うクラゲたち。薄暗い照明の中に浮かび上がるユニークな形の深海魚。

 新たな水槽を覗き込むたびに、子供の頃に戻ったみたいに心が躍り、新しい発見に目を輝かせる私。


「ほら、マナトさん、見てください。あれ」


 と指さしながら横を向くと、涼し気な眼差しと目があって、ドキッとする。

 このタイミング。もしかしてずっと私を見てた?


「あ、すみません。一人ではしゃいでしまって……」


 私は焦った。


「ん? なんで謝んの?」


 彼は不思議そうに首を傾げる。


「だって、さっきからあまり水槽の方、見てないような……ドン引きされてたかな、と」


 私の言葉に、マナトさんは悪戯っぽく口の端を上げた。


「ああ、バレてた? 確かに、魚たちも綺麗で面白いんだけどさ」


 そう言うと、彼は繋いでいない方の手で、私の頬にそっと触れた。指先から伝わる温かさに、また心臓が大きく跳ねる。


「正直言うと、君の方が何倍も面白い。だってさ、きらきらした目で水槽を覗き込んで……まるで少女みたいに可愛くて」

「え……っ!?」


 予想外のストレートな言葉に、顔が一気に熱くなるのがわかる。そんな風に思われていたなんて、恥ずかしすぎる。確かに夢中になりすぎていた。


「さっきからころころ表情が変わって、まあ、無自覚なんだろうけど見ていて飽きないんだ。どんな珍しい魚よりも、君の反応の方が、俺にとっては興味深い」


 彼の目が、奇妙な……愛おしいとでも思っていそうな……色をたたえて細められる。

 その熱っぽい視線を注がれて、私の心臓は早鐘を打ち始めた。

 もう、どうしていいかわからない。


「こんな顔、他の奴に見せちゃだめだよ。俺だけのものにしときたいから」


 まただ。彼の甘い呪いのような言葉。

 いつもなら「冗談ですよね」と流せるはずなのに、今日の私にはその一言一言が魔法のように甘く切なく響いてしまう。


(まるで愛の告白みたい……)


 繋がれた手の温もり、優しいエスコート、時折見せる悪戯っぽい笑顔。その全てが、私の心を甘く満たしていく。

 でも、ダメダメ。これは、福利厚生のアンケートで偶然当たったペアチケット。マナトさんたちもたまたま同じチケットに当選して、たまたま明子が気を利かせてくれて……そう、色々な偶然が重なって、この状況に陥っているだけなのだ。

 私は彼の秘書で、彼は私の上司。それ以上でもそれ以下でもないはずだ。


(でも)


 好きな人と大好きな場所で一緒にいられて、最高に楽しくて。

 しばらくは、この幸運に思う存分浸ろうと、私は心に決めたのだった。


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