「殿下が戦っていらしたあの部屋、今思えば墓陵の前室にしては広すぎるような気がします」
「あれは闘技場だからね」
「お墓に闘技場……?」
「私について、どこまで知っているかな」
緑雨は武賢王が謀反の罪を着せられて殺されたこと、そしてその遺体を異民族だった公主の父親が祁芳国に返還しなかったことなどを話した。
「その通り。私の墓誌に書かれていることも同じだ」
武賢王は遠い過去に思いを馳せるように、妻が眠る棺を見つめた。
「私は呪われ、霊体となったとき、妻の父親である首星族の王に言われたのだ。『そなたが死に、娘は自害した。そなたに罪がないことはわかっているが、父親として、娘が道連れにされたことは耐え難い。すまないが、その憎しみを背負い、百年間苦しんでくれ。百年経ったら、私の子孫が呪を解きに来る』とね。でも、見ての通り、その約束は三百年経っても果たされなかった。おそらく、妻の一族に何か悪いことが起きたのだろう」
緑雨は話を聞きながら、暁鐘閣で読んだ祁芳国の史書の内容を思い出していた。
「たしか歴史書には、首星族が代々盟主、テミルハガンを務めていた北方遊牧民族連合のデミルサルヒは、祁芳国と、祁芳国に朝貢している別の北方遊牧民族連合であるアルトゥンナラウールの連合軍に滅ぼされたと記されていました。……あ、それも、殿下が亡くなって数年後です」
武賢王の目に悲哀と僅かな怒りが浮かぶ。
「……なるほど。おそらく父皇は私の遺体奪還を理由に、当時対等で緊張感のある関係だったデミルサルヒを攻めたのだろう。アルトゥンナラウールと組んだのは、私の妹が和蕃公主としてもう一人の王に嫁いでいたからだ」
「和蕃公主は、公主が異民族に降嫁されることですよね?」
「そう。アルトゥンナラウールのテミルハガンを務める部族には、かつて子貴母死という制度があった。部族の後継者となる男児を産んだ妃が死を賜ることだ。それは妃の親族、つまりは外戚が力を持たないようにするという名目の悪習でしかない。父皇は支配的な友好関係を築くために娘を嫁がせ、子貴母死もやめさせた。北方民族の伝統を否定することで、祁芳国の絶対的な権力を国内外に見せつけたのだ」
武賢王は大きなため息を付いた。
「アルトゥンナラウールは今も部族連合として機能しているのかい?」
「何度か祁芳国と小競り合いがあり、一度壊滅状態になりましたが、今はオドル族が盟主となって友好関係を続けているみたいです。子貴母死制度についてはどうかわかりませんが」
「そうか……」
緑雨はすっかり元気がなくなってしまった武賢王を見つめ、一度深呼吸をしてから口を開く。
「あの、何故わたしの呪について知っているのですか?」
武賢王は「そうだったね。それを話しておかなくては」と、姿勢を正した。
「君は仙士だろう? 緑雨からは炎熱の霊力と、極寒の仙力の両方を感じる」
「そ、そうです。そこまでわかってしまうんですか」
「黒花族の巫蠱がかけた呪は破れるのに、自分にかけられた呪が解けていないということは、神仙以上の力を持つ帝に呪われたとしか思えない。帝に呪われて生きていられるのは、二つの異なった内力を得ることが出来る仙士かそれ以上の存在だからね」
緑雨は武賢王の頭の良さにも感心したが、それ以上に、『黒花族』という言葉が出てきたことに動揺した。
「巫蠱が……、黒花族なのですか?」
「え、知らないのかい? まさか……、そうか。祁芳国皇族お得意の焚書だな。伝わっていないのか」
「そんな、し、知りません。では、祥亀族のこともご存知なのですか?」
「祁芳国を守っている祝巫が祥亀族だ。黒花族と祥亀族は人間化し、片方は皇帝家に庇護を求め、片方は北へ居場所を求めたんだよ。彼らが祀っている帝は同じだが同じではない。それが『片脚の禍帝』だ」
緑雨はあまりの衝撃に言葉が出ず、固まってしまった。
「私が生まれるずっと前のことだが、その当時は祥亀族を国師にすることをよく思わない勢力もいたらしくてね。祥亀族を招くことを決定した皇帝が反対勢力を粛清したらしい。人間化したとはいえ、元は神仙だ。神仙の力は人間にとって禍福の力。それを取り入れることである種の均衡が崩れるのではないかと、重臣達は恐れたんだと思う。……他意はないよ」
武賢王は眉尻を下げ、「気を悪くしてしまっただろうか」と、緑雨を気遣った。
「大丈夫です。わたし達神仙と呼ばれる種族も、それを承知で生活しています」
「それならよかった。そうそう、それで、私は黒花族の巫蠱が呼び出した『片脚の禍帝』に、永遠に戦い続ける呪をかけられ、この三百年間休むことなく剣を振るってきたというわけだ」
「禍帝を、なぜ祥亀族の祝巫も祀っているのでしょうか」
「それは西王母とかと同じだからだと思うよ」
緑雨はこの世界でも珍しい、自我を保ったまま帝となった西王母について思考を巡らせた。
「不老不死を象徴する一方で、疫病も司る西王母……。つまり、『片脚の禍帝』には帝としての名が他にあり、善性と悪性の両方を併せ持っているということですね」
「そうだ。詳しくは知らないが、善性は『祝酒』、悪性は『禍酒』と呼ばれていた。片脚が無いのは、元の姿が影響しているらしい。緑雨のかけられた呪が私にかかっていた呪を解いたのだから、私達は同じ帝から呪われたということは間違いない」
武賢王は少し伏し目がちに緑雨を見ながら言う。
「ちなみに、緑雨にかかっているその呪はどんなものなのかな。話したくなければいいんだ。ただ、気になって」
緑雨は微笑むと、ゆっくり頷いた。
「呪について家族以外の方にお話するのは久しぶりです」
緑雨は深呼吸し、話し始める。
「わたしが罹患しているのは、『氷鳴律』という呪です」
氷鳴律は、稲妻のような寒気が身体中を駆け巡り、体内を破壊していく呪。
『片脚の禍帝』にかけられたせいで、緑雨の仙力と呪が結びついてしまい、神仙の力では症状を抑えることが出来ず、緑雨は母親の実家である香霧山荘で修業を積み、梅氏が使う霊力、灼炎万華を取得したおかげで氷鳴律の暴走を抑え込むことが出来ているが、それは絶対ではない。
両親やその友人達は十七年経った今もずっと治療法を探し続けている。
周りの大人達は、緑雨が血の混じった赤い氷煙を口から吐き出すたびに、心を痛めているのだ。
「では、仙力を使うたび、誰かを救うたびに君は傷ついているのか」
「身につけた霊力と、わずかながら制御出来る部分もあるので大丈夫ですよ」
目を潤ませ緑雨を見つめる武賢王に、緑雨は微笑んでみせた。
「ふああ、ん? あ! 緑雨!」
突然降ってきた声に驚いた緑雨と武賢王は、立ち上がり、懐愿の元へ向かった。
「えっと、あなたは?」
「初めまして、慧王。君の遠い遠い祖先、武賢王だ」
「まさか、生きていらしたんですか」
懐愿はすぐに寝台から降りると、作揖した。
「楽にしてくれ。そこの棺を見てもらえればわかるのだが、私はとっくに死んでいるよ」
「でも、そのお姿は……」
「緑雨が呪を解いてくれた後、少しだけ力が残ってね。だけど、それもそろそろ終わりのようだ。二人共、ここが崩れる前に帰りなさい」
武賢王は緑雨に向かって小さく頷くと、緑雨も悲しさをこらえて頷いた。
そして懐愿の腕をつかみ、「帰ってから話しましょう」と、ほぼ力付くで連れて行き、墓陵から脱出した。
二人が地上へ出てすぐ、地下へ通じる階段は崩れ落ち、完全に塞がってしまった。
「盗掘の被害にあわないよう、甘閣主に連絡します」
陵墓の入口だった場所を見つめる懐愿の横で、緑雨は小さな手紙を書いて竹筒に収めると、霊梟の払葉の片脚に結びつけ、空へと飛ばした。
「駅站の兵に守らせようか」
「いえ、それはやめておきましょう。林氏の闇市を放っておいた者達です。きっと何かしら癒着があったでしょうから」
「……確かに。全く情けないことだ。華芳に戻り次第、すぐに信頼できる兵を送り込むよう、父皇に上奏するよ」
緑雨と懐愿は来た道を戻り、青灯鎮の城内へ入ると、宿へ向かった。
「青灯鎮やその周辺の民が恐れていたものが取り除かれたわけだが、それは伝えるべきなのだろうか」
「きっと祝巫の方々が上手く説明するのではないでしょうか」
「それもそうか」
二人は宿につくと一直線に部屋へ向かった。
室内は冷え切っていたため、すぐに火を含んだ炭を運んでもらい、火鉢にくべた。
「緑雨、武賢王とは何を話していたんだい?」
小上がりに腰を下ろし、炭と一緒に運ばれてきた茶を用意していた緑雨は油断から肩が跳ねる。
「えっと、王妃のお父上が率いていた部族や、盟主を務められていた北方遊牧民族連合のことなどです」
「ああ、そういえば、武賢王の妃は異民族出身だったな」
懐愿は火鉢の熱に手のひらを添えながら、呟いた。
「今存続しているのはアルトゥンナラウールだけ……。周辺諸国との関係悪化に対処するために一部を定住化させ、現在では国家の体裁をとっている。かつて祁芳国に滅ぼされた王朝の遺民が住んでいた都城をそのまま使っているらしい。今の盟主……、いや、王、オドル族の族長ナラン=ドルジは私達とそう歳が違わないと聞く。先代のテミルハガンまで行われていた子貴母死を廃止し、部族連合も最盛期と呼べるほどにその勢力は年々増しているらしい」
懐愿は緑雨から渡された茶を一口飲むと、ため息を付いた。
「実は、先帝の時に一人、和蕃公主として送られた女性がいるんだ」
「送られた女性……、ということは、実際は公主ではなかったということですか?」
「その通り。アルトゥンナラウールの先代テミルハガンだったアモス=ドルジが何度も朝廷に使者を送り、友好関係維持のために通婚するべきだと、ほぼ脅迫のような要求をしてきたのだ。先帝は……、皇祖父上は国政に関しては表向き名君だったかもしれないが、底しれぬ残虐性を秘めた人だった。当然、自分の娘を送るわけもなく……。皇祖母上に仕えていた女官の一人を、『身体が弱いため行宮で育てられた』と、偽の冊書を作り、封号を与えてから皇族の名籍に載せた。たしか璇璣公主だったかな。ナラン=ドルジの母親となった人物だ」
「え、では……」
懐愿は再び大きくため息を付くと、首を横に振った。
「実際のところ、どうなったのかは私も知らないんだ。ただ、子貴母死という制度があり、後継者の男児を産んだとなれば……、まあ、そういうことなのだろう」
「でも、外戚排除のためとはいえ母親が殺されてしまったら、子供は誰が育てるのですか?」
「乳母だ。だが、その乳母が保太后となって親族とともに政治に介入することもあったようだから、結局のところ子貴母死などという悪習は意味がないということだな。ナラン=ドルジの乳母も、アモス=ドルジと同時期に亡くなったと聞いている」
二人は重くなった空気と疲労から、口数が減り、素早く湯浴みを済ませて布団へ潜り込んだ。
「阿愿、華芳に着いたらしばらく休んでください。わたしは甘閣主と江湖へ戻り、次に取り戻すべき書物について聞いておきますから」
「うん、わかった。でも、緑雨に会えなくなるのはさみしいな……」
懐愿から規則正しい寝息が聞こえてきた。
緑雨はいつものように氷の鎖で扉を塞ぐと、深い水底へ落ちていくように眠りについた。