階段を降りてきたのは、煌々と燃える松明と凶器を持った林の手下、総勢百余人。
「虞少仙、あなた一人ならばその恵まれた力を開放し、我々を皆殺しに出来るでしょうが、慧王殿下を傷つけないよう戦うのは難しいのでは?」
林は手を広げ、言葉を続ける。
「それに、開けてくださらないのなら、今この場で慧王殿下の命、頂戴いたします」
林の手下達が武器を手に懐愿を狙う。
「緑雨、私のことは気にしなくていい。心に従え」
懐愿の強く優しい眼差しを受け取った緑雨は、扉に手を添えた。
「阿愿、ごめんなさい。わたしは友人を護りたい。今この場にあなたの命よりも大切なものはないんです」
緑雨は身体中を駆け抜ける、弾けるような痛みに耐えながら、扉に刻まれた巫蠱の封印紋を解いていく。
激しくぶつかり合う仙力と呪力が稲妻のように光となって緑雨を覆う。
その力は広間のあちこちへ飛び散り、壁を破壊していく。
「緑雨!」
あまりに壮絶な光景に後ずさる林達の間をすり抜け、懐愿は緑雨に近づいた。
「阿愿、そのままわたしの後ろにいてください。合図したら、すべての霊力で自身を守るのです。刹那のうちに起こる現象に立ち向かうには、封印を解除中のわたしの霊力では間に合いません」
「緑雨は」
「わたしには仙力があります。大丈夫ですよ」
弾ける力は天井にぶつかり、壊れた部分から瓦礫が降ってくる。
「今です、阿愿」
緑雨は懐愿を抱きかかえ、勢いよく開いた扉から跳び退いた。
「これが、これが武賢王の」
昏い煌めきが一閃、扉の内側から飛び出した。
林の首が身体から離れ、声が途切れる。
手下たちも避けきれなかった者は身体を切断され、即死した者を幸いと言わなければならないほどの惨状が広がった。
口を覆いたくなるほどの血のにおいが充満する。
溢れ出る妖魅達は混乱しているのか、扉の中と外を何度も交互に見ながら何かに引き寄せられるように扉の内側へ向かって再度走っていく。
「阿愿、大丈夫ですか」
「あ、ああ。だいじょう……」
懐愿の口から血が流れ出た。
「瘴気か!」
緑雨はすぐに懐愿を座らせ、空から取り出した薬を鼻先に持っていく。
「ゆっくり大きく呼吸をしていてください。この瓶の中の煙薬がなくなるまで、動いちゃだめです」
頷く懐愿を支えながら、緑雨は階段を氷で覆った。
唯一の逃げ道を失った林の手下達が、苦痛に喘ぎながら緑雨を睨みつけた。
「副葬品が欲しいなら取りに行けばいい。でも、この瘴気と妖魅達を一掃するまでは、誰もここから出しませんから」
緑雨の言葉は、激しく闇が打ち合う轟音の中で霧散し、気づけば誰の耳にも届かなくなっていた。
林も、その手下達も、全員息絶えたのだ。
「まだ誰かいるのか!」
扉の内側から、清らかな強い声が聞こえてきた。
「います!」
「無事か!」
「一人重症です!」
「今行く!」
扉の内側に向かい、剣から衝撃波を放ちながら現れたのは、美麗でありつつも精悍さも兼ね備えた青年だった。
身につけている甲冑は古風でありながら武将としての勇猛さをうかがわせる。
ほのかに光を帯びている身体からするに、生者ではない。
「あなたは……、武賢王殿下ですか」
「いかにも。色々と理由は後で話すから、まずは彼を助けなければ。血の縁を感じるが、もしや皇族か」
「はい。祁芳国第五皇子、慧王殿下です」
「なるほど。それなら、一時的に私の霊力を与えられる。ただ……」
「わかっています。血族の呪ですよね。わたしなら、後で解呪できます」
緑雨の言葉に、武賢王は笑みを浮かべて頷くと、懐愿の背に手を当て始めた。
「君からはどういうわけか私がかけられている呪か、それに近しいものを感じる。名は?」
「わたしは虞 緑雨です」
「では緑雨、私が慧王に血族の呪をかけている間、あいつらの相手をしていてくれるかい?」
「お任せください」
緑雨は氷彩を抜刀し、足元に転がる林やその手下達の亡骸が凍るほどの冷気を発しながら、扉から溢れ出てきた妖魅の中へ斬り込んで行った。
凍てつく仙刃波が異形の身体を次々と斬り刻み、吹き飛ばしていく。
袈裟に斬り上げ、次の妖魅には振り上げた氷彩で斬り裂いていく。
胴を切断し、背後からくる妖魅の頭上へ宙返りしてから首に刃を当て横に引く。
緑雨は左の手のひらを斬り、流れ出る血を凍らせてもう一振りの刀に変えた。
目の端に映る自身の髪が変化していくのがわかる。
それは月夜に降る青みを帯びた雪のように白く、昏く。
戦闘のさなか、副葬品の白銅鏡が宙に舞う。
鈍い銀色の鏡面に映し出された緑雨の虹彩は、湖に張る薄氷のように透き通った淡い水色になっている。
身体の中で仙力が優勢になり、結びついた呪である氷鳴律が表面にも現れているのだ。
口から氷煙が漏れ出す。
まるで氷鬼のようだ、と、緑雨は自嘲した。
「緑雨、待たせたな。……その姿はやはり、『片脚の禍帝』と関係があるのか」
「なぜそれを」
緑雨の瞳孔が開く。
「後で教えよう。慧王が無事なうちに、ここを片付けなければ」
「この妖魅達はどこから来ているのですか」
「いい質問だ。この妖魅の群れこそ、私の副葬品なのだよ」
武賢王の目が好戦的に煌めく。
「やつらの依代は共に埋葬された妻の侍従達の亡骸だ。彼らの骨に刻まれている巫蠱の紋を消してほしい」
「わかりました」
緑雨はその場を武賢王に任せ、陪葬室へ急いだ。
次々と出現する妖魅達を斬り伏せながら暗い廊下を進んでいく。
「あった、けど……」
眼前に広がるのは百体を超える殉死者を納めた木棺。
そのすべてが立っており、棺の蓋には永遠に解けない透明な呪氷、凍晶がはめ込まれている。
中にある亡骸はまるでまだ生きているかのように新鮮で、皮膚の内側で骨に刻まれた巫蠱の紋が赤く光っている。
「一つ一つ解いている暇はない」
緑雨は氷彩を納刀し、覚悟を決めた。
「毒には毒を。呪には呪を」
腕を伸ばし、身体を淀みなく流れる仙力を、氷鳴律に与えた。
目の前が白く、靄がかかったように虚ろになっていく。
身体の奥から喉を伝って口から溢れ出す血だけが熱を持ち、手足は氷のように冷たくなっていく。
息をするたびに肺は針を飲み込んだような痛みに苛まれ、四肢には寒気が稲妻のように疾り抜ける。
苦しい、痛い、上手く意識が保てない。
耳鳴りが、脳内を締め付ける。
口から漏れ出る氷煙に赤が混じり始めた。
立っていられず、崩れるように膝をつく。
床に座った緑雨は、下を向く身体を起こし、手と脚を修練の型に組む。
氷で出来た小さな菱の実が身体の中を傷つけていくような鋭い痛みの感覚。
激痛に耐えながら呼吸を整え、少しずつ湧き出る治療用の霊力を、血液のように巡らせる。
暴れ続ける氷鳴律が体内を傷つけ、咳と共に血煙が噴き出るも、途切れそうになる意識を繋ぎ止め、集中する。
亡骸にかけられた巫蠱の呪と氷鳴律が共鳴し、凄まじい音波を発しながら紋が砕けていく。
あと少し、あと少し、あと少し。
ぼやけた視界の端で、最後の一体に刻まれていた紋が破裂した。
緑雨は呼吸を整えて霊力と仙力が拮抗するよう、氷鳴律を抑え込んだ。
手足に熱が戻っていく。
次第に視界の靄が消え、鮮明になる。
凍っていた睫毛から雫が落ちた。
「戻らないと」
緑雨はまだふらつく足をどうにか動かし、武賢王と懐愿の元へと急いだ。
武賢王が戦う部屋へたどり着くと、妖魅は残り数体となっていた。
緑雨も加勢しようと走り寄る。
足がもつれ、体勢が崩れた。
そこへ、妖魅の鋭利な爪が迫る。
武賢王は複数体を相手にしており、視界が合わない。
少しくらい傷を負ったところで死にはしない、と、緑雨が受け身をとろうとしたその時、身体の横を、疾風を伴う矢が通り抜け、妖魅の額を貫いた。
「りゅ、緑雨……」
「阿愿!」
懐愿は緑雨の無事を見届け、弓を落とすと、気を失い、その場に倒れた。
目に映る大切な友人の姿に、全身から血の気が引く。
緑雨は懐愿の身体を抱きとめると、氷彩で右手のひらを斬り、凍った血液を鋭い暗器にして妖魅達を仕留めた。
「二人共、大丈夫か」
すべての妖魅を片付けた武賢王が剣を鞘に納めながら近づいてきた。
「慧王殿下が」
懐愿の身体は絹糸のように白く、脈も呼吸も弱い。
「緑雨、このままでは彼を救えない。私の遺体と亡き妻が眠る墓室へ行こう」
緑雨は懐愿を背負い、武賢王の後に続き、長く暗い廊下を最奥まで進んで行く。
「不思議だろう。まったく朽ちていない、この墓も、殉死者の遺体も、豪華絢爛な副葬品も」
武賢王は自嘲するように息を吐くと、呟いた。
「すべては私にかけられた呪の効力によるものだ」
「さぁ、着いたよ」と、武賢王に促されて入った墓室は、混乱するには十分なものだった。
「妻と私が横たわっているのが棺なだけで、王府の寝殿の部屋と何も変わらない。妻もただ寝ているように美しいままだ」
墓室は、品の良い調度品と手入れの行き届いた家具や艶々に磨かれた板張りの床で飾られ、ここがはるか地下にある場所だということを忘れてしまうほど。
ただ一つ異質なのは、武賢王の亡骸が納められている黄金の棺から漂う強い呪だ。
「棺の後ろにある寝台に慧王を寝かせよう」
緑雨は言われた通りに懐愿を真紅の布団が敷かれた寝台に寝かせた。
「緑雨は手出し無用だ」
武賢王の目が優しく細まる。
「でも」
「君にかけられている呪は霊力でないと抑えることができないものだ。その大事な霊力を、瀕死の彼を救うために使えば、君は生きてはいられない」
武賢王は緑雨の肩に触れると、困ったように微笑んだ。
「君の命と引換えに助かったことを知ったら、彼はどうするかな? 少し考えれば、簡単にわかるだろう」
「でも、それでは」
「血族の呪を解いた瞬間、私の力を全て慧王に与えよう」
武賢王は意識のない懐愿に近づくと、その上半身を起こし、後ろに座って背に両手を添えた。
「いいのですか……? あなたは、武賢王殿下はすでに神性を帯びています。亡骸にかけられた呪を解き、正しく亡くなれば、神格を得ることが出来るのですよ。その機会を捨てるような真似を、どうして」
「君が霊力を極限まで使い、己の身を犠牲にしてまで彼を救おうとしているのと同じ理由かな。世界は常に若者のものだ。残酷な現実や悲痛な思いを抱えて生きる人々から、希望の光を奪いたくない。だから、二人とも生きてくれ。それが私の最期の願いだ」
それに、と武賢王は続ける。
「さっさと生まれ変わって、また妻と出会い、恋をして、今度こそ幸せにしたい」
緑雨はまだ冷たさの残る身体を、あたたかな想いが覆うのを感じた。
武賢王の亡骸にかけられている呪を解けば、この陵墓全体が停止していた時の流れにのまれ、それに抗う強さのないものは全て朽ちてしまう。
残るのは、静けさだけ。
「よろしく、緑雨」
緑雨はこみ上げる涙をこらえ、血族の呪を解いた。
そして、武賢王の棺に近づき、その身体にかけられている呪を、氷鳴律の力で相殺し、破壊した。
それと同時に、緑雨の髪と目がもとの色へと戻っていく。
「生きるんだ、慧王」
武賢王の霊体に宿る神性がすべて霊力に変わり、まばゆい光となって懐愿を包む。
肌に血色が戻り、頬が桜色に染まる。
呼吸が安定し、心臓が強く元気に脈打ち始めた。
「おや? 少し力が残ったようだ」
武賢王は懐愿を再び寝台に寝かせ、「彼の意識が戻るまで、話をしようか」と、緑雨に言った。
二人は執務用に作られた小上がりに腰掛けると、小さく息を吐いた。
「君たちはなぜここへ?」
「実は皇宮で書物の盗難事案が起きてしまい、まずは墓誌から調査することとなり、取り返した墓誌の中に陵墓のことが書かれていたんです」
「なるほど。随分と大胆な賊だな」
武賢王は何度か頷くと、小さな声で「ただ、書物を狙うとは頭が良い。盗まれた情報が多いほど、目くらましにもなるからな。敵が求めている真の目的が何なのか、こちらに悟られたくないのだろう」と眉根を寄せた。
「次は緑雨の番だ。何でも質問してくれ」
武賢王の笑顔に、緑雨もつられて少し口元が緩む。