清廉とは永遠に縁のない男達に囲まれながら客桟を後にした緑雨と懐愿は、少し急かされるように歩かされ、城外へ。
田畑が広がる土地を進む一行を、作業に勤しむ農民達が目を合わせないよう顔を伏せながら様子をうかがっている。
「豊かな土地でしょう? ここはまだ畿内で軍事拠点の一つではありますが、兵力というよりは、兵糧を確保することを主な目的としているようですね」
「詳しいな。どうやら、吏部侍郎とその夫人は随分仲がいいようだ」
「夫婦仲が好いのはいいことですよね、殿下」
林との会話に懐愿は声に棘を含めながら続ける。
「情報収集のために作られた偽りの睦まじさなど、怪異と何も変わらない」
「おやおや、これは手厳しい」
雪を踏みしめるくぐもった音がいくつも並ぶ。
冷たい余韻を残して会話が終わると、ちょうど竹林の入口にたどり着いた。
先ほどとは打って変わって、何者の足跡もないまっさらな雪道が視界に映る。
闇市へは轍の跡がいくつもあったはず。
そのすべてが音もなく降り続けた雪によって消え去っている。
風で揺れる竹から、陽の光でわずかに暖められ氷の粒となった塊が落ちてくる。
懐愿は小石ほどの氷が緑雨に当たりそうになっているのを見て手を伸ばしたその時、氷の塊が緑雨にぶつかる直前に砂よりも細かな霧となって消えるのを目撃した。
「緑雨……」
「どうしました?」
「あ、いや……。そうだ、えっと、灯穂幇について教えてくれ」
林達の身体が警戒するように固くなる。
「私も知りたいですね。香霧山荘がどこまで情報を得ているのか」
緑雨は振り返り微笑む林を一瞥すると、話し始めた。
「灯穂幇 灰氏は西域諸国との貿易を独自に行い、財を成している一派です。華芳の西市に舶来品店がありますよ。珍しい調度品や家具、高価な香辛料を扱っているようです」
「西市の店までご存知とは。恐れ入りました。ただ、財を成していると言っても、富豪榜常連の香霧山荘には及びません」
「そうですか?」
緑雨は林の背にむかって短く息を吐き出すように笑うと、言う。
「賭場の売上を計上すれば、富豪榜の下位には入れるのでは?」
林の肩が小さく跳ねた。
「灯穂幇最大の輸入品は、西域の奴隷拳闘士でしょうから。そうだ、まだ使ってるんですか? 彼らを強制的に戦わせる、粗悪な寒食散を」
林は肩を震わせ、嗤った。
「なるほど。ようやくわかりました。薬の闇市を襲撃し、焼き討ちにしたのは香霧山荘だったのですね。おかげで良質な寒食散が手に入らず、拳闘士達は日々その後遺症に苦しんでいます」
「一時的な筋力増強、思考鮮明化のための猛毒の売買を、我らが放っておくとでも?」
林は尚も口元を歪め嗤いながら、今度は懐愿を一瞥してから再び前を向いた。
「寒食散を初めて使用し始めたのは他でもない、あの始皇帝ですよ。詐欺師の法術士を信用し、不完全な煉丹術によって作られた寒食散を服用し不老不死を目指した哀れな暴君……。どんなに偉大なことを成し遂げた天子とて、所詮、その程度ということです」
不気味な艶を含んだ声が、懐愿に向く。
「三百年以上の歴史を誇る祁芳国皇帝の中にも、そういった愚かなものに手を出した天子もいたかもしれませんね。調べてみては? 慧王殿下」
「何が言いたい」
「杏鳳玄大夫の子孫である虞少仙ならわかるのでは? かつて、祁芳国皇帝が戦争に勝つために兵士たちに何をしたのか」
懐愿の瞳が揺れ、緑雨を見つめる。
「殿下は知らないでしょう。皇族は不都合なことがあるとすぐに箝口令を敷き、証拠となる書物を焚書してきましたから。そうですよね? 虞少仙」
緑雨は懐愿の不安そうな動揺している表情に対し、どう慰めればいいのか咄嗟には思い浮かばなかった。
「慧王殿下は挙げた武功は数しれずの常勝将軍です。そのため、よく知っているのではないですか? 戦場専門の趕屍匠を」
林の声色に懐愿は不穏な空気を感じながら口を開く。
「戦死した自軍の兵を遺族の元へ連れ帰るために、一時的に自走する遺体、僵尸に変える道士のことだろう」
「そのとおりです。しかし、はるか遠き時代に行われた戦争は日に日にその苛烈さを増し、数多の戦死者を出しました。亡骸が莫大な数になるほど、当然趕屍匠の人数も足りなくなります」
懐愿は鼓動が早まるのを感じた。
「そこで、杏鳳玄大夫は遺族のために、趕屍匠が足りなくても遺体が一時的に自走できるよう、霊薬を作りました」
堪えきれなかったのだろう、林は高らかに嗤い、言う。
「杏鳳玄大夫の知己とも言えるほど幼い頃より信頼し合っていた当時の皇帝は、あろうことかその霊薬を戦争の兵器の一つとして利用したのです。戦死した兵士たちの身体を疲れ知らずの肉の壁とし、戦力を増強しました。そのことに杏鳳玄大夫が気づいたときにはすでに遅く、十万人以上の兵士の亡骸が粉々になっていたのです」
懐愿の目に、ひどく重い衝撃が浮かぶ。
「遺族を思いやる慈愛が込められた霊薬のはずが、当時の皇帝によってそれは戦場を壊す毒薬となったのです。どうです? 面白いでしょう。薬なのか毒なのか、それは使う者次第ということです」
言葉を失った懐愿の腕に触れた緑雨は、林の背に向かい、言い放つ。
「身体に流れる血が過去に何をしていても、それを今生きているわたし達が背負う必要はないでしょう。永遠に責め合うことが正しい世界ならば、そんなもの、滅んでしまったほうがいい」
懐愿の視界にゆっくりと緑雨の姿が広がり、向けられた笑顔に、波立っていた心が落ち着くのを感じた。
「青臭いですね。家族や愛する者が凄惨な死を迎えたとき、同じことが言えますか?」
「大切な人達を傷つけた者すべてを殺してから、同じことを言います」
「虞少仙に殺された者達の家族や友人が復讐にやってきたら?」
「受けて立つでしょうね。わたしに殺意を持って会いに来るならば、わたしも同じように殺意で迎えます」
林は諦めたようにふっと短く息を吐くと、竹林から覗くわずかな空を見上げ、首を振った。
「あなたは、私が今まで出会ってきた人々の中で一番、身を引き裂くほどの凍てついた一面をお持ちです。虞少仙」
嫌悪することも忘れてしまったほど自覚している性分を言葉にされた緑雨は、今にも林に向かって暴言を吐きそうになっている懐愿をなだめ、微笑んだ。
「お話していたら時間などすぐに経ってしまいますね。到着です」
林が立ち止まったのは、竹林のなかに意図的に作られたような円状の空間。
緑雨は円の真ん中へ行くと、雪をかき分け、地面に触れた。
その瞬間、雪を巻き上げ竹から葉を奪い空へ吹き飛ばすほどの風が吹き荒れた。
「緑雨!」
駆け寄ろうと突風の中を進もうとする懐愿に向かい、緑雨手を挙げた。
「誰も近づかないでください!」
緑雨は鞘から剣を抜くと、仙力を込めて地面へ突き立てた。
すると、土が霜柱で覆われ、緑雨を中心に、氷が巨大な水晶のように生え、地面を壊し始めた。
その中で四本の大きな氷の柱が背丈を超えるほどの位置まで伸び、吹き荒れていた風とともに止まる。
次の瞬間、緑雨の足元が割れるように開き、地下へと続く階段が現れた。
「そ、それは……」
林が口を手で覆い、顔を顰めた。
四本の氷柱の中に入っているのは、まるで眠るように埋められていた人間だった。
「おそらく巫蠱だと思われる術師が人柱として結界になっていたようです。でも、人間の術師にしては効力が強すぎる気がする……」
緑雨が人柱を観察しているうちに林達がその横を通り、階段を降りて行く。
「緑雨、私達も行こう。嫌な予感がする」
「そうですね。行きましょう」
緑雨は剣を鞘に納めると先に降り、その後に懐愿が続く。
湿っぽいが、苔のにおいはするものの、黴臭さはない。
暁鐘閣でいうところの三階分に及ぶ段数。
壁も階段も滑らかに整えられており、祁芳国の様式とはまるで違う、独特な模様が彫り込まれている。
燭台を彩る鳥と星座の意匠は北方の異民族が用いるものに似ているが、明らかに近代のものとは違う。
「あった! あったぞ!」
階段の奥から林の歓声が響く。
追いついた緑雨と懐愿の前に現れたのは、声が響くほどの大広間とその奥を繋いでいるであろう巨大な観音開きの扉だった。
「さぁ、虞少仙。先程のような解呪の術を見せてください」
「待ってください。これ、おかしいです」
緑雨は扉に近づき、刻まれている紋に触れる。
刹那、右腕に強い静電気のような痛みが奔る。
「この陵墓に刻まれている紋は、埋葬されている遺体の幽鬼化を防ぐ解除紋じゃない。中にいる強く邪悪な何かを留めるための封印紋だ……。開ければ大変なことになりますよ」
緑雨が彫り込まれている紋様に触れるたび、解かれることを拒むように弾けるような音を発しながら黒い火花のような呪力が破裂する。
「それがどうだと言うのです。ここに眠るは、三百年前の皇長子、武賢王殿下とその妃である異民族の公主。一度も盗掘にあっていないこの陵墓に収められている副葬品は桁違いですよ! 邪悪なものならば、あなたが蹴散らしてくだされば問題ない」
林はそう言うと、右手を上げた。
頭上を通る無数の足音。
「いわゆる、援軍ですね」