フィルは確信する。
こんなロボットは、おそらく市場に存在しない。
浮遊モジュールは、物質的にも法的にも取り扱いが難しく、量産体制は未だできていない。粘土、プラスチック、金属……外装は、既存のどれにも当て嵌まらない素材だろう。ガラス質の伸縮可変ワイヤー、関節も無いのに立体機動……数年前流行ったマンガで見た。つまりファンタジーだ。顔……顔?これ顔?楕円形の機体の中央、ちょうどくぼみのところに球体がある。ガラス玉だろうか。これも浮いているように見える。
見れば見るほど分からない。フィルの頭には「オーパーツ」の字が浮かんでいた。
そして、つい先ほどのことを思い出す。
(おかえりなさい、くろえはかせ……)
ロボットはそう言った。
流暢な男性の声。少し古いサービスでよく聞いた、感情を込めない合成音声だ。
クロエ博士。クロエハカセ。
フィル=ウィンステン。ミドルネームを足したとして、アナグラムにもならない。
ロボットに人違いをされている?
それとも、プログラムに入っていた音声を、たまたま自動再生した?
件のロボットは、フィルを部屋の外に連れ出すと、丁寧に床へ下ろし、そのまま下階に降りていった。フィルはとっさに追いかけて、その後ろを着いて行く。
階段、玄関ホール、リビング、キッチン……短い道のりとはいえ、沈黙が落ち着かない。
「あ、あの、ぅ」
フィルが呼びかけると、ロボットは移動を止め、フィルに向き直った。
「あ、いや……大したことじゃないんだけど、ね。その……」
……ロボットがあまりにもじっと見つめるので、たじろいで、次の言葉が出ない。
フィルはサポートAIを切ったことを後悔した。あれの指示に従う限り、コミュニケーションはひとまずどうにかなるのだ。AIならこういう時、どんな指示をした?必死に記憶を辿る。
(……まずは、謝るべきことがありますね。このように仰ってください……)
「……えっと、勝手に入っちゃって、ごめんなさい。誰かいるって、思わなくて……」
……
「あのあの、それと……さっき、転んだとき助けてくれたよね。その、本当にありがとう……」
……
「……はは、じゃあえっと……もう大丈夫です……」
……
ロボットは何も言わず、フィルを凝視する。薄々感じていたが、機能不全があるのだろうか。よく考えたら、発する言葉も、短く単語を放つのみだ。
ロボットは突然、ガラス玉の中の模様を、きゅうっと細く歪ませた。そして、フィルの手を、その奇妙な両腕ですくい取る。フィルはぎょっとした。
『 許容 』
珍しく聞き取れた。許容……許す?
いいよ、ということだろうか。フィルが何か言おうとしたが、ロボットは続ける。
『 クロエ博士 』
『 5年 不在 』
『 不問 』『 再来 』
『 歓喜 』
ロボットは、フィルの両手をぎゅっと握る。再度、模様を細く歪めた。
「……えっと……そうなんだ?」
訳もわからずフィルがそう言うと、ロボットはするりと手を離し、背を向けて移動を始めた。
流暢な男性の声。フィルは頭の中で、継ぎ接ぎの意味を繋ぐ。
クロエ博士……フィルのことを指しているのだろう。
……は、5年の間、不在だった。
ふもん?不問?問わない?
再来、に、歓喜する……
――あなたは、5年、不在でした。不問にします。戻ってきて嬉しい。
フィルに電流が走る。冷や汗が吹き出す。
まさか。まさか。また何か聞き間違えたに違いない。推測が間違っているかも……
……ロボットの、細く歪んだ模様。笑っていたのだろうか。ぎゅっと手を握って……
迷子の子供が「ママ」としがみついてきたような、えも言われぬ居た堪れなさが、腹のあたりに込み上げる。
それは、単なる人違いとは訳が違った。
マズいことになった、かもしれない。
『 待機 』
ロボットはキッチンの奥で立ち止まった。目の前には壁一面の大きなカーテン。
「窓?えっと、私は……」
カーテンが勢いよく引かれ、フィルの言葉は遮られる。
窓ガラスが当てはまるはずのそこは、物々しいシャッターで塞がれていた。ロボットが中央のキーを操作する。電子音と、鉄の擦れる音が響く。
シャッターが開く。その奥には、コンクリート製の階段が、地下へと影を作っていた。
ロボットの淡い光を頼りに、階段を降り、通路を進み、もう一度階段を上がる。すると、小さな部屋があった。打ちっぱなしのコンクリートの壁に、いかにも重厚そうな扉が収まっている。
『 クロエ博士 』
しばらくぼうっとして、フィルはそれから気がつく。そうか、自分のことだ。慌ててロボットに駆け寄る。
ロボットは小さなパネルの前に浮遊し、フィルに手を差し出していた。
『 拝借 右手 』
「え?右手?」
反射的に手を伸ばす。ロボットはフィルの手を取ると、その掌をぺたりと密着させる。
そしてロボットは、フィルに見えないよう、パネルの隙間からワイヤーの指を差し込んだ。
――――――――――――
生体認証
エラー
エラー
エラー
…………………………。
インストール
暗号解読
コード改竄
エラー
阻止
ハッキング
…………………………………………………………。
完了
――――――――――――
『 完了 』
20秒足らずの静寂の後、ロボットはそう告げた。
「へっ?――」
ガコン、と鉄のぶつかる音。ビープが鳴る。
硬く閉ざされた扉が開く。
『 待機 』
小気味いいスライム音とともに、ロボットはフィルの掌から剥がれ、扉の奥へと進んでいく。その手はみるみるうちに変形し、気付けば元のワイヤーに戻っていた。
フィルは、開いた扉の前で立ち尽くす。呆気にとられていた。
今のは一体……
小さなパネルに視線が向く。ポストカードサイズのそれは、手紋認証に使われるものだった。大富豪の金庫に取り付いているような、そんなイメージがある。
そんなものが、なぜここに?あのロボットと関係が?……そもそも、どうして開いた?
――クロエ博士?
右手を見る。さらりと乾いた掌に、ロボットの冷たい腕の感触が残っている。
妄想が次々と浮かんで消える。しかし、それらしい推理をするには、情報も頭も足りなかった。
パチッ……パチッ……
扉の奥で、スイッチのような音がした。
フィルが顔を上げた――直後。
辺りが、真っ白になった。